米国人は数学ができなくても国語はすごい。日本の情緒的、感想文的な国語教育とは違い、明確に「大量の文章を読みこなす、他人を説得できる文章を書く」という目的に特化した国語教育の成果だ。している。国語教育が論理に裏打ちされている。日本に比べて米国が圧倒的な競争力を誇っているのも、米国の国語教育が大きく貢献している。日本の数学教育重点主義を見直そうというという主張は、国語教育の強化と表裏一体でなければならないだろう。
米国の教育と比べて「論理」、「説得力ある文章作成」が日本の国語教育で決定的に足りないとは思います。米国人数学できなくてもある程度以上の教育を受けた人たちはみんな文章めちゃすごいです!
— ひでき (@hidekih) 2018年4月10日
米国においては、小学校から自分の意見をどう形成し、どう人に伝えるか、どう人を説得するかを教育される。意見の形成にも、伝達にも、説得にも、絶対的な論理力が必要となる。数学の形式論理とは違う、人と合意できるベースとしての論理学が米国では徹底的に教育されている。GMATと呼ばれるビジネススクール入学のための標準化された試験においても、論理学は一分野として重要視されている。論理に裏打ちされた国語ができない人間はビジネスもできないとみなされるのだ。
更に、米国の高校のエリート校だと毎週、英文学の本を一冊くらい課題でだされる。読解力と論理の力で、その作品を読み込んでこないと授業にはついていけない。内容について自分の意見を表現し、ディスカッションし、レポートを書かなければならない。同様の形式で歴史、社会、倫理学などが教育されると聞く。
確かに、米国人の数学力は日本人のそれとは比較にならないほど低い。米国における普通以下の高校での数学教育はひどい状況にあると聞く。私もついつい米国人の数学のできなさをネタにすることはある。ビジネススクールでも、最初のサマースクーリングの授業では高校レベルの数学の復習をさせられた。だが、数学のできなさを補ってあまりある国語力を体験したことがある。マーケティングの実習でのできごと。学生で構成されたマーケティングチームで、ある産業分野の専門ニュースレターを発行している会社のマーケティングタスクを請け負った。私は日本人として数学的分析力があるので市場分析からリーチが足りないという結論をだした。そして、1995年当時ようやく一般化してきたインターネットでサイトを開き、ニュースレターの申し込みにつなげ、将来的には課金制のメールベースに移行するという提案の骨子をまとめた。しかし、中間報告では私の国語力のなさからいいたいことが伝わらなかった。そこで、米国人のチームメイトが徹底的にレポートを書き直してくれた。見違えるような出来となった。プレゼンもまあまあうまくいった。帰国してからだったが、私を含めてこのチームにクライアント企業からジョブオファーが来た。
米国の「すごい」国語教育の一端を経験してしまうと、日本の国語教育は非常に不足してることを感じざるを得ない。そもそも明確な目的が設定されていない。読むのも、書くのも、決定的に量が不足している。教科書読んで、情緒的な感想を述べて終わりでは、読む力、書く力はつかない。さらに言えば、他の科目でも国語力を鍛えさせるべき。科学の実験をしたら考察、仮定、目的、方法、分析、結論のそろったレポートを書かせる。音楽の授業でも、音楽に関する本を読んでレポートを書かせる等、いくらでも国語力を鍛える教育の方法はある。
数学なくせば中退が減るというのは極論だが、日本の教育においてもっと「使える」国語を教育すべきだ。「使える」国語力がないために、日本の社会は大きなチャンスを逃している。例えば会社に入っても説得力のある議論が展開できず、上司や先輩に言いくるめられ、萎縮して仕事にならない。現代社会の技術革新の激しい時代だからこそ、説得力ある意見、レポート、文章、ディスカッションができる日本人が伸びていくべきだ。また、現代社会においてすべてのビジネス、すべての創作行為に法律が絡んでくる。法律解釈、運用とは、まったく国語力なのだ。米国における法律の授業はまさに「論理」の核心を問われた。正直、まったくついていけなかった。米国人と肩を並べて仕事をするには、法律の解釈、運用ができなければできない。これは、現代日本社会で仕事をする上でも同じ。法律がわからなければ仕事にならない。そして、国語力がなければ法律も使えない。大きな差が開くばかり。