AIが書いた脚本を映画化したと。興味深く見た。まがりなりにも、認知心理学で卒論を書いた私にとってここまでニューラルネットワークでできたということは感慨深い。
この映画には、不条理SF的なおもしろさがある。セリフもほとんと意味をなさないようにも想えるが、男二人、女一人が登場する時点で、ある種の愛憎劇を視聴者側は意味付与してしまう。この不条理さは、私にとってジャン=リュック・ゴダール監督の「Prenom Carmen」に匹敵する。
AIにしろ、ゴダールにしろ、視聴する側が「意味」を「作品」に付与する以外鑑賞する方法はない。そもそも、AIにはニューラルネットワークによって産み出されるコンテクスト以外になんの意図もない。「意思」がないのだから当たり前だ。ゴダールの意図はあまりに隠されすぎていてたどることができない。それでも、私にとっていずれの作品も男女の間にある「弁証法」とも言える対立と調和のあやういラインを描いているように見える。
AIが作ったアートというアイデアは以前から存在する。例えば、ウィリアム・ギブソンの「カウント・ゼロ」に自我に目覚めたAIが作るモダンアート作品というSFガジェットが登場した。1986年のこの作品が示唆するAIが作るアートにこんなに早く出会える日が来るとは想っていなかった。「ニューロマンサー」シリーズが想定した近未来とは21世紀の中頃であったろうか?
ウィレクが依頼したのは、コーネルの作り上げた「箱」と呼ばれる美術品を思わせる、本来ならありえない作品の出所を調べる仕事であった。
カウント・ゼロ - Wikipedia
ちなみにこの「コーネル」とはジョセフ・コーネルであろう。
ジョゼフ・コーネル (Joseph Cornell、1903年12月24日 – 1972年12月29日)は アメリカのアーティストで、アッサンブラージュの先駆者の一人。シュルレアリスムに影響を受けた。前衛的な実験映画の制作者でもある。
ジョゼフ・コーネル - Wikipedia
コーネルも「意図」を極端に隠した作品を作り続けた芸術家だ。ポロックのように「全ての意図を捨てた」と宣言する芸術家もいる。モダンアートこそ、実はAIにふさわしいのかもしれない。