HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

浪江町の風景 その2

今年も浪江町にお邪魔してきた。ボランティアでも、お手伝いでもなく、本当に「お邪魔」しにいっただけ。確実に復興が進行しているところと、まだまだ去年と全く変わらない所が混在していた。

先日、福島第一原発の被害に今も苦しむ福島県浪江町に行って来た。衝撃的だった。私のように状況を理解できていないものが浪江町の状況について書くことにためらいがある。それでも、なにも書かないよりはましかと考えられるようになった。

image

2014-05-19 - HPO機密日誌

なにより大きいのは、浪江インターチェンジが開いたことだろう。前回は、二本松方面からえんえんと帰宅困難地域を通って、浪江の中心市街地までいくしかなかった。途中、「検問」を二回通ったと記憶する。今回は、浪江インターをおりて中心市街地までスムーズにすすめた。

浪江IC - 南相馬IC間は2014年12月6日に、常磐富岡IC - 浪江IC間は2015年3月1日にそれぞれ開通し、これにより常磐自動車道は全線開通となった。

浪江インターチェンジ - Wikipedia

確か、安倍首相の肝いりで工事が進捗したのだと記憶する。よいご判断であった。

例えば、先ほどの1年半前の地点の現在の写真。船がなくなっていた。

すべての写真-592

実はこの写真には、福島第一原発の煙突が映っている。

すべての写真-592

これを毎日ご覧になる浪江町の方々のお気持ちを思うと実にやるせない。津波の被害は天災であったといえるかもしれないが、福島第一の災害は人災である面を否定できない。一瞬の風向きでふるさとの野山を台無しにされ、早期の復興の機会を奪われてしまったのだ。浪江町の面積の八割が帰宅困難地域と聞く。

もうひとつ大きく進んだのだと感じられたのは、この仮設焼却施設。

image

1年前には先ほどの船だけでなく、町のそこここに流されてきた瓦礫や、被害に遭われた住宅の残材などがあった。それが大分片付いていた。1年半先に予定されているという、中心市街位置から海岸、港にかけての避難指示の解除への準備が進んでいた。JR浪江駅も、北の仙台側から同じ時期に開通する予定であると聞いた。

2017年(平成29年)3月まで - 当駅 - 小高駅間の運転再開予定。

浪江駅 - Wikipedia

それでも、インフラひとつとっても陽圧で送られる上水は復興していても、下水は勾配の問題、処理場の問題でまだまだ復旧していない。ましてや、お店も、住宅も復興していない。役場の方々、復興に伴う工事の方々以外の人影は中心市街地でもない。人と人との地域のつながり、コミュニティというものがどれだけ大切か、どれだけこのような災害に対して壊れやすいかを実感する。一日も早く、在りし日の浪江町に戻っていただきたい。

二回目ということで、前回気づかなかったことに気づくことができた。たとえば、千葉と浪江の歴史的なつながり。

namie-yakimono

福島浪江町 大堀相馬焼復興ファンド | セキュリテ

浪江町にいくと至る所に馬にまつわる絵や、焼き物、レリーフなどに気づく。実は、浪江町はもともと相馬藩の一部だった。この相馬藩は馬で有名だった。なぜか?話しは約一千年、千葉常胤にさかのぼる。常胤は、源頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に大変な功績があった戦国武将。常胤の5人の子の内、相馬師常が相馬藩の創始者となった。そもそも、千葉は昔から馬で有名。馬を飼いならす技術を千葉氏はもっていたから。結果、相馬藩は鎌倉時代から明治時代まで存続した数少ない大名家となったと聞く。

なにはともあれ、浪江町浪江町の方々の一日も早い、町と地域のつながり、発展繁栄の復興をお祈りする。機会がある限り、浪江町を訪問し続ける。