まあ、軽々にいうべきことではないが、昨日のエントリーのような勘違いを、話題のピケティもしているという話しがあった。
国富は資産の値上がりでのみで決まるのか? - HPO機密日誌
くだんの記事の指摘。
ピケティが描く絵に致命的な問題がある事を、明確に示している。資本の増大と資本分配率の上昇はほとんど住宅と地価の上昇で説明され、ピケティが指摘する生産技術が資本集約的になったことは、ほとんど影響していない。21世紀の資本は住宅と言う、ありふれた形態をしていた。
「21世紀の資本」は住宅だった: ニュースの社会科学的な裏側
経済の成長指標はGDPだと信じてきた。ピケティのいう経済成長率とはGDPの成長率として理解して問題ないと想う。国富の増加は、近似程度のものであるとしても、ピケティの資本収益率だと理解してもそれほど間違いではないだろう。ピケティの歴史的な推測が正しければ、資本の大きさと所有者の数はべき分布するといっていいのだから。1割、2割の資本家が資本=国富の5割、6割を持つという形であるとすれば、資本=国富の伸びは、資本収益率だと。で、SNA、国民経済計算の統計をみればわかるように、国富は土地や、株の値上がりに大きく影響を受ける。実際には、資本だけで成長しているとはいえない。収益自体は資本=国富を増加させていない。先のグラフとGDPの推移を比べてみれば一目でわかる。
日本のGDPの推移 - 世界経済のネタ帳
まあ、大切なのは一体なにが一国の国民の幸せの指標であるかだ。GDPの成長率が国民の幸せの本質なのか?国富が増えれば、結果的に国の環境や文化が向上して幸せに生活できるのか?資本当たりの利益率が経済成長を上回り、密度の高い資本の主体にますます集中することが悪なのか?
べき分布のグラフを見ていると運命論的に、強いもの大きいものの「winner takes all」な状況は固体化されてしまっているように感じるが実は違う。常に小さきものの中から独自性をもった大きなものへの運動が起こり続け、強いもの大きいもの少ないものが倒されていく中で均衡をとっている。倒されるときにサイバーカスケードが起こる。それは、あたかも、極小から極大へ向かい、極大の中に次の極小がの種が埋め込まれている大極のごとくだ。
小さきもの、弱きものへの慈悲 - HPO機密日誌