HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自分を中心から外す

「生きがいについて」の随所に、耐えかねる苦しみのうめきが聞こえる。

或る人は歌った---

こよいも宇宙は私をみつめている
数かぎりない眼をひらかせて
私の骨の骨、髄の髄まで
たえまなく、容赦なく

次は結核で病んでいる或る娘のことばである。「私にはもう時間というものがなくなってしまったような気がする」

愛し、そして喪ったということは、 いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

そして、うめくほかない苦しみの場所からいかにして、出所しうるかについて様々に書かれている。私にとって、ああと胸を打たれたのは、二度続けて引用されているパールバックの言葉。「中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時」。自分自身が苦しみのまっただ中にいたとき、常に主語は自分であった。なぜ自分はこのような状態になったのだろう、この状態にいることに私は耐えられない、私にできるわけがない、(私は)これだけは許せない。自分を中心にすることは、わざわざ屠殺場に自らを引き出すようなものだ。自分にスポットライトを浴びせれば、浴びせるだけ苦しくなっていく、悲しくなっていく、自己憐憫という地獄に落ちていく。主語を自分が打ち込んでいる仕事の課題、幸せにしたい相手、自分の愛する地域の発展にすると、自然と自分が見えなくなる。自分の苦しみ、不幸が気にならなくなる。そして、ほんの紙一重のことでも、課題の進捗、相手の小さな幸せへ、地域の発展繁栄への一歩が自分の喜びとなっていく。

で、そんなことを考えていたあるご夫妻とほんとうにたまたまたお会いした。話しこんでくうちに、「自分を中心から外す」ことに至った。「お前、少しは人生わかってんじゃないか」とご評価いただいた。よくよく話していく内に、母校である筑波大学で教えていらした鈴木伸一先生だと分かった。世の中狭い。

今日に至っては、会社で使っている「月刊 朝礼」にそのものずばりが「生きがいについて」からではなく書かれていた。「自分を中心から外す」ことが「自然の法則にかなった生き方」だと。

「私にも悩みはあります。でも悩みのほとんどは、自分を中心に考えたときに生まれるということに、ある日、気がつきました。そういうときには、中心を自分以外の人に置き換えるようにします。すると、物事が不思議にうまく回り始めます。結果手kに、最初の悩みがきえていたりします。」

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心を高める『月刊朝礼』|社員教育の一助としての教育ツール

「生きがいについて」の格調高さとは、対極の騒がしい話しとなってしまったが、やはり名著は何度読んでも発見がある、気づきがある、人生の真理がある。