HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

立場とは生きる場

安冨先生によると「立場」は「立庭」が昔の形で、東大寺文書というのに出てくる「菪鹿之立庭」が最古の用例のひとつなのだそうだ。

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

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この「庭」とは、イノシシやシカが住む生態系上の場所という意味。生きる「場」が「立場」(庭)であり、家の儀式での立つ順番、市場(いちば)で商売に立つ(自分が独占できる)場という意味などへ変容していく。「役」を行う「場」が「役場」だし、「役」をする人が「役人」だと。こうした日本語の「場」をただ意味でだけとらえれば「それぞれの生態系での位置」だと言える。

現代の「立場」の用法も、社会という生態系の中での生きるための場所という意味でそれほど遠くないのかもしれない。安冨先生は「東大話法」の第四章で夏目漱石と渡辺研一さんという東大卒(!)の特攻隊員の言葉から「立場」の用例を議論していらっしゃる。

国民の遺書  「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選

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寂しい、悲しいといふやうな感情を振り捨てて与へられた使命に進まなければならぬ立場にあるのです。

ここがいまいち私にはわからない。安冨先生がご指摘になられるように、この「立場」とは「生態系的位置」だけではすまされない。生態系的位置であれば、自分の命を守るためには場所を移動することができる。この場から逃げることができる。だが、渡辺さんにとっては、逃げることなど考えられない「立場」という使命がここにある。

...と、書きかけて愚樵さんがきちんとこの問題に向き合っておられることを知った。

「無心」、「有為」という言葉で渡辺研一さんのゆれる心を見事に描いていらっしゃる。付け加えるべき言葉を私は持たない。まして、日本語の「蠱惑的」(=あやしい魅力)側面のエントリーには全面降伏だ。

しいて今後の思考のために安冨先生のご著書から引用しておきたいのはここ。

(「役(役割、仕事)」と「立場」という)両者が一致せず、その不一致の拡大が放置されると、組織も社会も機能不全に陥ります。皆が必死に役を果たして立場を守っているというのに、仕事がぜんぜん進まない、と言う事態が起きるのです。まるで籠の中のリスが、回し車の中で全力疾走しているのに、ぜんぜん前に進まないような状態です。私はバブル崩壊以降の日本社会の不調の原因はここに有り、この不一致を誤魔化すために、膨大な国際が毎年発行されて、財政赤字が膨らみ続けているのではないかと睨んでいます。

「立場」がなければ「役」に立たないというのが日本の社会。立場に応じた徳目を身につけることが場を弁えた大人。徳目を弁えるとは、ジェイコブズが分析しているように「市場の倫理」と「統治の倫理」を混合しないこと。混合しないためには、カースト社会のように生まれたときから身につけるべき徳目が分けられていなければならない。「立場」を重視する日本は、多少の逃げ道と流動性の道を残して二つの徳目を分けて教える知恵が残っていた。だが、その本来の生きる場としての「立ち場」が強調されすぎ、固定化しすぎると必ず腐敗する。このせめぎ合いの潮目をもっと見ていかなければならない。

市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)

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