HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

地域研究された成田

自分のしてきた仕事が研究対象になっているのを発見した。いや、してきたなんておこがましい。クライアントの「成田が好き!」という意志の実現のお手伝いをさせていただいただけだ。

あらためて成田の成り立ちを感じた。

新勝寺が全国的に知られるようになったのは, 元禄期以降のことである.1700(元禄13)年に住 職として迎えられた照範は,翌年から開帳を行い, 特に江戸での信者を獲得していった(成田市史編 さん委員会編,1986a).成田山の開帳は,1701(元 禄14)年以来,1857(安政4)年まで23回(居開 帳8回,出開帳11回,巡業開帳4回),近代には 14回(居開帳9回,出開帳5回)行われた1).開 帳には成田村の男衆を動員し,江戸まで行列を組 んで向かうなど,成田村と新勝寺は結びつきが あった(成田市史編さん委員会編,1982).開帳は, 地元の成田村とのつながりを強くする一方で,信 者の獲得や,本堂建立や修理に当てる資金の獲得 など,寺院の発展にも欠かせない行事であった(成 田市史編さん委員会編,1986a).また,歌舞伎の 市川團十郎が成田不動の霊験記を演じたことも, 成田山信仰が流布する契機となった2).

本研究によって成田の商店街としての変化がよくわかった。ただこの先へ線をひいただけでない成田の街作りのお手伝いができれば、私は本望だ。


道で撮ってきた紫陽花。