HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ブログを書く気力がない

暑いからだろうか?ストレスに負けているからだろうか?ブログが面白くなくなったからだろうか?ゴッドマーさんのエントリーに同感している私がいる。


ゴッドマーさんに「幸先悪い」とお叱りをいただいてしまったので加筆。*1

私も今朝から憂鬱がとまらなかった。RSSリーダーを開いていくつかのエントリーを読ませていて抱き、その憂鬱は深くなるばかりだった。そのうちのひとつ。

我々の脳は量子力学を理解できるように作られてはいない、とか。

リチャード・ドーキンス、進化論的視点から物理を語る - JGeek Log

途中までしか見れなかったし、英語は三分の一もわからなかったがあのドーキンスが語っていた。量子論や新たな科学の枠組みを理解し展開するには前の世代と同じ人間ではだめなのだ、と。世代が変わらないと、新しい考え方は広く理解され、利用されない、と。要は、ばかはしななきゃなおらないの、と。

人の考えには必ず枠組みがある。人は人の枠組みの中でしかものが見えないし、そもそも人は自分が絶対的に正しいと確信していなければ生きていけないのだが、枠組みの中の正しさでしかない。「いや、そんなことはない、私は私が無知で間違いばかりをしている」という謙虚な人もいるかもしれないが、そういう謙虚さも世界の成り立ちと、自分の成り立ちについて一定の仮定を持っている。人は自分の正しさという限界を超えられないのだ。

ブログを始めていろいろな方々がいろいろに考えていらっしゃるのだと分かった。また、いろいろな枠組みの中で論理と思考と感情を展開しているのだなともわかった。枠組みの違いは場合によっては、ネット上の住み分けとなり、地球の上に生きていて歩いていけばいつかはちかづけるかもしれないなというぐらい、遠い存在も知った。2004年の当時、私にとってそれは発見であり、未来の可能性であった。

しかし、日の下にあることはすべて過去の繰り返しでしかない。ブログとか、twitterとか、SNSとか、ネットのさまざまなサービスも、人が己の正しさを乗り越えられない限り、過去に人がなしてきたことの繰り返しでしかなかった。人が人の正しさを超えて人の子たちのために行動する場にはなりえなかった。

こんなレシピによって、今朝のゴッドマーさんの憂鬱に十分に共感できる四十を十分にすぎた私ができあがる。

今のNetで一番層が厚い年齢って20歳代から30歳代でしょうか、彼らと同じ土俵にはいる気はしますが、見ているところが違うと感じる私は、なんとなくやはり部外というか。

ハーブのピックル液で手軽に胸肉の蒸し物: godmotherの料理レシピ日記

ブログなんぞに手を出す前の私はものを知らず、世代間闘争も知らず、仕事のストレスには負けていても、人の正しさに夢を見ていた。その私がいまは、ばかはしななきゃなおらない、世代は変わるまで世界は変わらないのだという失望の沼地に沈んでいる。

ブログを離れたところで発見はあった。いま少々勉強していることで知識が理解に変わる瞬間を味うことができた。恥ずかしい話だが、最初はほんとうにそのテーマが理解できなかった。教室で授業についていけないことがこんなにも恥ずかしく、つらいものなのだと知らなかった。ところが、ある時期から突然全体が見えた。ストーリーが分かり、難所急所がどこかも掴めた。新鮮な体験だった。

2008年の私は、ブログを書くこと以外のリアルの世界に自分の正しさの地平を超える手段があるのかもしれないと考えている。

と、ここまで加筆したところでゴッドマーさんのようにおいしそうには撮れないが、今日のお昼の写真を載せて一区切りとする。

*1:時間ができたので、夜に書きなおしました。