HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

なんかもったいないので...

メールボックスを整理してたら出てきたので...いまさら自分のブログで自分の考えのなさをさらすこともないのだけれど、今日はそんな気分。

文章が下手で本当にすみません。

たぶん、エントリー読んでいただいてもますますわけわかんないですよね、きっと?

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20080422/1208847969

ええとですね、ナチスを理論面から支えたカール・シュミットというドイツの政治理論家がいます。たまたまfinalventさんと東さんの議論の真っ最中に私は「政治的なものの概念」という本を読んでいました。この本の中で、西欧の政治哲学の中では、どうでもディオゲネスのキニク派というのは無政府主義者、自由絶対主義者としてとらえられていて、ナチスという国が絶対的な存在であるとたてまつろうとするファッショの思想からいえば、天敵みたいな存在なんだと書いてあるように、私には思えました。

でも、一方で浅田彰ではないのですが、ご指摘の「ノマド」を理想とする現代思想の根源にはやはり自由主義があり、そのルーツをさかのぼるとディオゲネス的な個人主義にたぶん行き着きます。東さんは現代政治思想に明るい方であり、その日本における代表格なのかもしれません(個人的には鈴木健介さん大好きなのですが、それはちょっとおいときます)。ので、どうしてもディゲネス的なものの視点から発言されるのだと思います。その意味では、はなからナチス、ファッショは敵である、と。敵の思想に深入りする必要はないということになり、彼らの立場から思想的な展開を追うことは思想体系の上からありえないのだと私は思います。

これに対して、今回の議論でfinalventさんが宗教まで引き合いにだされてご指摘されているのは、ジェノサイドというのは、そもそも人間の心性の中に「友と敵」を分けようとする性質がいやおうなくあり、それが自動的に進んでいく性質を持っていて、ジェノサイドに簡単につながってしまう、ということではないかと私には思えます。もっともっと深いところをおっしゃっているのだと感じるのですが、私は言葉にすることはできません。オットーの「聖なるもの」あたりと聖書の知識と信仰がなければ、ジェノサイドへの道と友愛と信仰への道との違いが見えてこないのではないでしょうか?

宗教社会学の授業で、宗教には挑戦する機能と体制をまもる機能の両面があると教えていただいたのがついこの間のようです。

なんかながなが書いてしまいましたが、佐藤さんの感覚はものすごくただしてく、この議論の分水嶺みたいなところをついていると申し上げたかくて、↑↑のコメントをつけさせていただきました。

佐藤秀の徒然幻視録:ディオゲネス症候群と動物化