HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

そっかいまここで書くべきなんだな 〜保守主義、自由主義とは伝統の尊重、父祖への感謝〜

保守主義自由主義とは伝統の尊重、父祖への感謝なのだね。いや、そうでなければ成立しえない。以下、なぜなのかを考える。

自由の相互性

「私はあなたの財産と権利を守るから、あなたも私の権利と財産を守ってください」という自由の相互性の原則が確立されることが自由であるとしよう。以下、「自由の相互性」という単語をこの定義で使いたい。

自由の相互性が守られない、野放図な自由は、あまりに不安定であるので「自ら由らしむ」べき自由とはならない。

野放図な自由は、いわば「万人の万人に対する闘い」となる。「自ら由らしべきむ」自由とは、自分の財産と権利を担保とした自由である。自分の人格、自分の信頼、自分の財産を担保とした自由人同士の間でしか、人と人との間で誠実で永続する関係は成立しない。自由の相互性こそが、個々の自由取引の大前提でなければならない。たとえば、コンビニでおにぎりを買うというような、ごく短時間で行われる取引にも必ず支払いと受け取りの間に時間差がある。コンビニの店員がお金をもらったまま逃げ出してしまえば、お金は失われ、被害届けを出すなどしないと経済的損失は生まれない。言わばおにぎりを買うという自由が失われてしまうことになる。お金を払えばかならずおにぎりが買えるという自由取引は、自由の相互性という担保で埋めるしかない。あなたがお金をはらわずにレジからおにぎりだけを奪うという「自由」は野放図な自由であり、担保された、相互性のある自由ではない。

完全な計画経済には自由はない

計画経済においては、自由は失われる。

なぜなら、そこでは、自由取引よりも「配給制」のような、人間の意志と自由の相互性という担保が必要とされない商品の分配が強調される。人間の意志と自由の相互性がなければ、「自ら由らしむ」べき自由の相互性の破壊となる。完全な計画経済では、すべては強制的に行われ、国家がすべてを保障するために、相互の権利も自由もない。いや、幸運なことに完璧な計画経済、完璧な全体主義はこの世には存在したことはないし、これからも存在しないだろう。

そもそも、賢い方々が計画した取引だけがすべてである取引の集積は神ならぬ不完全な人間が行う限り、サイバーカスケードというか、自己組織化臨界現象というか、べき分布的「例外」が必ず生じるので、計算不能状態に陥る。安定して滑らかに自由取引が行われる自由主義経済には相互の尊重が必然だといっていい。

フリーライダー

計画経済ではない体制であっても、自由の相互性の原則が徹底されれば、必ずフリーライダーの発生という問題が起こる。

人の信頼と尊重を、悪用する輩だ。自由のフリーライダーとは、自由が存続するために必要な基盤の維持、整備に力を注がず、相互性ではなく自分の外形的で野放図な自由のみを主張する。「ただのり」、働く、働かない、というよりも日本においてかろうじて残ってきた伝統的な価値を破壊するような方々ではないだろうか?

こうしたフリーライダーたちは、証券取引におけるインサイダー取引よりも、天然資源の過剰使用よりも、社会の共通の財産を侵害する。与えられた権利を悪用し、父祖と子孫に対する感謝と尊重が失われる他の世代に対して害を及ぼす。なぜなら社会の最大の共有財産、コモンズ、コモンセンスを破壊するからだ。借金が増えようと、経済の三流国となろうと、「私は日本人だ」と胸を張ってどうどうとしてられる国民がいるかぎり、未来は開ける、日本人の最大のコモンズは残る。自分だけよければ、として自分自身の利益の最大化をはかり、生き残れたとしても、何のために生き残るのかというコモンセンスが失われてしまっては相互主義は継続的に安定であることはできない。

余談だが、安冨歩先生の言葉を借りれば、「ハラスメント」ということだろうか?

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

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ローマ帝政とデモクラシー専制

フリーライダーの害を考える時、ローマ帝政の伝統が私には想像される。

ローマの帝政とは、我と我が身の全てを担保にさしだし、善政を行なえなければ暗殺されても構わないという覚悟で、自分の人格において帝国に起こるすべての問題を解決しようとした「カエサル」たちによって担われた。担われることによってパックスロマーナは支えられた。帝政を確立したアウグストゥスに先立つカエサルが、自分の政敵にもローマのコモンセンス、伝統である寛容さを示した上で、あえて護衛もつけずに元老院に登院し、結果として暗殺を受け入れたことは、歴代のローマ皇帝の新たなコモンセンスを生んだのではないだろうか。自己を担保としてかける、自己犠牲を厭わないという覚悟だと私は信じる。そして、この寛容さと我とわが身をなげだすリーダーの崇高な姿は、大切な共有されるべきコモンセンス、伝統として永く残ったのではないか。

同様にして現代の各会社の皇帝、そして戦士である経営者たちも我と我が身を投げ出して、組織内に衆愚制を引き入れることなく、一人の人格において次の経営者に引き継ぐべく入会地、コモンズを自由の相互主義、したがって自由主義に基づいて経営している。企業組織における民主制は決して成功しないだろう。数々のエンパワーメントと称する試みは行われてきたが、リーダーシップの発揮によって成功している会社は数々聞いても、完全に民主的なマネジメントが行われていて永続して成功している会社を私は不勉強のせいか知らない。

国と個人と自由、コモンズ

順番が違ってしまったが、自由は国がなければ、担保されたない、成立しないということに触れておくべきだ。

自由の相互性といったところで、人間関係の間でだけ存在するのでは脆弱なものだ。国を失った状態を想定して見れば、自分に残る財産も権利もないことは子供でも分かる。財産も権利もなければ自由の相互性はありえない。無政府状態あるいは難民状態では、むさぼりくらう貪欲さが発揮されるだけだ。>国を失った状態を想定して見れば、自分に残る財産も権利もないことは子供でも分かることだ。財産も権利もなければ自由の相互性はありえない。無政府状態あるいは難民状態では、むさぼりくらう貪欲さが発揮されるだけだ。

現在の法律や常識というルールをルールたらしめているルールは存在する。それを私はコモンズ、コモンセンスと呼びたい。

国が存続し、表面上の自由が確保されても、全体主義的に統制する以外に民主主義は必ず衆愚に陥ることを歴史は繰り返して来た。今の日本でなにも決まらないのも、個々人の力が足りないというよりデモクラシー専制という衆愚に陥っているからではなかろうか?米国憲法を読んで、歴史を学べばなぜ「共和国」でも、「民主主義」とも、国名に入っていないことは留意されるべきだ。日本も同様に国名が「日本国」であることに留意すべきだ。

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のうえに自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

http://tokyo.usembassy.gov/j/amc/tamcj-071.html

デモクラシー、民主主義という時の「民」、「国民」には過去と未来の国民が含まれていない。過去と未来から切り離された自由は信頼できない。担保するものがなにもないから。自分だけが主である状態は簡単に人を堕落させる。それが、デモクラシー専制であろう。

そして次の世代へ

人は獲得してしまった財産や、権利に鈍感だ。価値に気づかないものだ、それを失ってしまうまで。子ども、次の世代への相続はだからこそ大切であり、自由の要だ。自由の成り立ち、国の成り立ちを、再度確認する店卸しである、再獲得である。子をなすことによってのみ、次代を養う活動に参加してのみ、自由の相互性、自由の担保、自由の獲得の根拠の価値が理解できる。

よって、保守主義自由主義とは伝統の尊重、父祖への感謝がなければならない。


■追記

あのな、そもそも会社は社長のものなんだよ。

http://d.hatena.ne.jp/YOSIZO/20080222/1203692098