HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

聖徳太子と大工

道具とか習熟とか技術とかってとても大事だ。IT技術が当たり前になり、ネットワークがどこまで進むかわからないほど日常生活に密着していても、道具に対する習熟という技術が生産性というか、いごこちよく生きていくためにはとても大事だ。いまのヴァーチャルが主流になりつつある時代でも、自分のくせに合ったエディターとか、それなりにカスタマイズしたウェブブラウザーとか、自分なりにセットアップしたページから見るネットスフィアとか、手にあったキーボードとか、それなりの道具立ては必要だ。

職人というか、技術者というのは、道具、習熟にこだわる。というか、道具や習熟が自分たちの命だ。

太子講という職人の間のお祭りがある。

聖徳太子がどうして様々な職人達の信仰の対象になっていったのかは、はっきりしていませんが、聖徳太子が寺院建立に大きなな功績があったことや、曲尺を発明したことなどと関係があるのではないかといわれています。そこで聖徳太子の忌日の1月21日か22日に太子講が行われるようになったのでしょう。時期としては中世から近世にかけての時期ではないかと考えられています。 

知られていないことだが、職人たちの間では、聖徳太子は日本のありとあらゆる技術の始祖だと信じられている。私の父祖もお太子さんを大事にしてきたと聞いている。ほとんどオーラルヒストリーというか、口伝の歴史であり、実際に聖徳太子の時代までさかのぼることはないのかもしれないが、意外なほど全国に広がっている。ちょっとぐぐってみればわかる。

例えば、西岡常一さんは対談集の中で「お太子さん」についてなんども口にのぼしている。

斑鳩の匠 宮大工三代 (平凡社ライブラリーoffシリーズ)

斑鳩の匠 宮大工三代 (平凡社ライブラリーoffシリーズ)

この西岡常一さんをすごいなと感じるのは、聖徳太子法隆寺のころの棟梁たちとあたりまえに「会話」できるところだ。法隆寺の解体修繕をとおして、古代の棟梁たちの仕事ぶりを実に丹念においかけられ、身体で感じられたのだろう。ヤリガンナを現代に復活させるときの話は、当時の大工の息遣いまで感じてきた西岡棟梁ならではの気迫を感じさせる。

「建築用材と工具」の章での、ヒノキ、スギ、クスノキ、コウヤマキケヤキなどの木のそれぞれの、建築材としての特性を語った話や、古代のヤリガンナ(現代に伝わる台ガンナが使われるのは室町から)を、正倉院宝物に残された小型ヤリガンナから復元したり、その使い方を北野天神縁起絵巻など古絵巻の場面から推測し習熟した話などは興味が尽きない。

Bunkaken.net

そうそう、ヒノキや台檜について語るときには木とも会話しているようにしか思えない。建築の構造などをちょっとでも勉強すると部材の固さよりもねばり強さをあらわすヤング係数が大事だということはよくわかる。材木のヤング係数計測するのはなかなか大掛かりになるのだが、木を知りぬいた西岡棟梁には、「私はここまでねばりづよいですよ、こう切って欲しいんです」と木の方から語りかけているとしか思えない。

「目をふさいで触っても、これは尾州(旧尾張藩、長野、岐阜)や吉野(奈良県南部と和歌山、三重の山岳部)やということぐらいはわかります、ヒノキでも。」
「吉野のヒノキを削って触りましたらね、なんちゅうのかな、こつっとした感じでちょうっと冷たい。尾州のヒノキはいわば真綿を触った感じ。織物でいうたら吉野は麻の感じ。尾州は絹物の触り。」

私にも多少の見聞があるので想像するところがあるのだが、大工、職人として三代を過ぎるというのは実に苦労が多かったに違いない。華やかに語られている部分だけのなまやさしいものではないことを感じる。聖徳太子の名前は伝わっても、名前は伝わらない古代の大工たちと同じだ。だからこそ確信を持って西岡棟梁はせいいっぱいの仕事ができたのだろう。

「よろしいですな、現在は鉄材というものに頼りすぎてますし、いまの建築学者の考え方や構造力学というものは、今日の力ばっかりを考えて、五十年むこう、百年むこうは考えてくれませんのや。鉄材を入れんと許可せんということでね。私らのいうているのは最小限千年ということおを考えてやっていますでしょう。だいたいいまの建築基準法というやつは、聞いてみたら二十五年くらいやそうやから。それに合わせての基準ですわな。そんなもんと千年とは雲泥の差がありますわなあ。まあ、鉄材を使えば二十五年ぐらいは大丈夫ですわ。」

代々といっても実際には祖父から仕事を教わったというひとごととは思えない話など、西岡棟梁の言葉を引用しはじめるととまらなくなりそうなのだが、最後にひとつだけ自分に言い聞かせる言葉としてこれでやめる。薬師寺西塔の心柱の用材の話だ。

「わりあいに節のあるかたい木です。というのは、節のないスカーッとしたいい木はわりあいに弱くて、いのちが短い。キューッとねじくれるような木が強い、そしていのちも長いというんで、塔の外側はくだけてもかまわん、心柱だけはのこるようにというので、わりあいに強い木を選んで柱にしときました。」

■追記

西那須ではいまも太子講が行われているそうです。

いや、結構あちらこちらでありますね。なんかうれしいです。

こうみるとどうも太子講は北関東の方が現在も続いているような感じがします。この辺も地域によってだいぶ違うのでしょうね。