現代哲学自体が社会とは常に変革されなければならないという脅迫概念にとらわれているように思える。
社会の基盤を規定するのは、以前は生産力であった。今は、交通と通信だろう。技術とこれを広くとられえれば、生活の仕方を変える技術の革新が続く限り哲学はなくらない。哲学は人が自分の意味と成り立ちを生活の中に見出す行為だからだ。
世界が変わろうとしているとき、哲学が換わらなければならないと自己脅迫的になるのは、仕方がないのだろう。それでも、過剰適応という言葉もある。
私には、可能適応気味でないかなと思うのは、変革、革新を目指す限り「敵」が必要となることだ。しかし、もはや「人は人の欲しがるものを欲しがる」時代には「敵」は外にはいない。
変わるべきは自分自身なのだ。自分のリンクの仕方なのだ。
それをルールと呼ぶ人もいるだろう。
それでも、目を向けるべきは外ではなく、自分のうちなのだ。