どうしようか、よほど悩んだが、やはり「飲み会」の前に自分の立場を明らかにしておいた方がいいかなと思い、書きはじめる。
ことの発端は人の性にしてしまうのが、楽だ。それも、欠席裁判に限る。そもそも、フランシス・フクヤマは、「歴史の終わり」を全ての国や政治形態が「リベラルな民主主義」に帰結することだと書いた。なぜ、リベラルな民主主義か?
民に主権があるということ、人民主権
人間にはつねに優越願望と対等願望がある。主権が国民にあるということは、特権的な階級が社会に無いということ。選挙権があるということ。国を、政治を、変えようとホンキになれば、変えられるということ。
民主主義(みんしゅしゅぎ)は、デモクラシー(democracy)ともいい、人民(ないしは国民)が主権(支配の正統性および実際の政治権力の双方を含む)をもち、為政者と人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な立場・原則。この原則に立つ政治体制を民主制(民主政と表記されることも)という。転じて、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数で物事を決める原則を民主主義と呼ぶ場合もある。
民主主義 - Wikipedia
リベラルであるとは、
市民一人ひとりが、自分の人生における自分自身の幸福 (Happiness) を、誰にも干渉されること無く自由に追求できる社会環境と政治・経済体制の必要性を説く思想が、本来のリベラリズムである。
自由主義 - Wikipedia
このリベラルなデモクラシーにおいて、人々はあぐらをかきはじめる。いつでも、自分が本当にきにいらなければ、圧制をうけているわけでもなし、政治の主体の移動を行う事ができる。
ただし、この後にまっているのは「大崩壊」かもしれない...
それでも、デモクラシーは人民主権なので、人民主権であることの最大限の証しは選挙だ。いくら「ほんとに自由主義なのかよ?」とクビを傾げたくなる場面があったとしても、選挙権は行使する事ができる。いくら、日本的義理人情や、ありとあらゆる団体的圧力下で選挙がおこなわれていても、選挙権は選挙権。選挙を制するものが勝ち。
この意味で、集団的に票をかきあつめられるやつが、どれだけブログで意見を我々がはいてたとしても、一番強い。あんまり正直にここで書くと、ちょっとやばいのかもしれないが、農協、特定郵便局長会、労組、教職員組合、医師会、いくつかの宗教団体などが、こうした利益団体にあたる。私はこうした力を否定するものではない。
しかし、「既存勢力」の中では、高齢化が進む中、すでに40歳以下の人口が日本の総人口の半分をしめるのに、この選挙の力のバランスによって、あきらかに高齢者向け、既存勢力むけの政策がつづいている。
選挙の力 → 政治家の力 → 政策の方向性 → 特定団体の力が増す → 選挙の力...みたいな感じ。
だから、ネットできちんとやっている人が選挙にうかれば、それだけで日本の政策の向いていく方向を変更しうる。幸いweb、ブログは広大だし、多くの人の意見が飛び交っている。しかも、最近かなり収束する力とすらなっているようにうかがえる。すんばらしいタイミング。
うーん、ブレーンストーミングにしかならないな、こりゃ。まだ、記事には全然なんねーだよ。