ようやく「痛快!憲法学」を読み終えた。たぶん、01年の出版後すぐ一度読んでいる。出版から15年。それなのに、今回読んでいてかなり新鮮に感じた。15年前も、今も、まったく私は考えが足りないということにため息付くばかり。
痛快!憲法学―Amazing study of constitutions & democracy
- 作者: 小室直樹
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2001/04
- メディア: 単行本
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本書において、小室直樹はヨーロッパの歴史を詳細に論じている。ヨーロッパにおける王政から立憲君主制、そして、民主主義がいかに生まれたかを分析している。また、一神教の背景があり、また宗教改革の予定説によって初めて資本主義が可能になった歴史も分析している。そこで、返す刀で戦前の日本の議会がいかに民意に負けて(軍部でないところが大切)、民主主義を捨てたか。戦後の日本憲法が田中角栄裁判を通じて、議会も、司法も、検察も人々の「空気」に負けて民主主義を死なせてしまったかを克明に描いてみせる。
その中で、日本において伊藤博文ら明治の元勲が一神教でない日本でいかに資本主義、民主主義を根付かせるかの工夫をした。キリスト教の絶対神のいない日本で、いかに見えない一神教を作ったかが述べられている。日本に一神教なんてあったか?そう、「現人神」としての天皇制のことだ。尊皇攘夷の時から、天皇親政が思想化されていた。逆にいえば、江戸時代からすでに「尊皇攘夷」思想として、立憲君主制は予定されていたと言える。
そして、「五箇条のご誓文」の宣言による天皇親政開始による一神教的な国の体制が始まった。西欧においては当たり前であった神の前のすべての民の平等が、天皇親政において初めて実現された。神の下の平等がなければ、資本主義も、民主主義も生まれ得なかったことはヨーロッパの歴史が示している。「五箇条のご誓文」は天皇が自ら「皇祖公租」、つまりは天照大神から続く自らの皇統に誓う形での非成文「憲法」の原点である*2。
明治の元勲も、当時の政治家も、民衆も、誰も明治天皇が神だとは想っていない。しかし、天皇を神の末裔だと規定することよによって、キリスト教ではない日本において、初めて民主主義と資本主義の前提条件を満たすことができた。日本の立憲君主制、明治の政治体制、議会制民主主義は、「五箇条のご誓文」から始まったといっていい。憲法とは、成文化された条文だけでなく、その条文の精神に則って行動する君主、政治家、議会、そして、民衆がいるからこそ成立している。非成文という言い方は正しくはない。正確には慣習法だと言うべきだ。いずれにせよ、国全体としての憲法、憲政理解、慣習が憲法を生きた国の柱とする。*3
あ、そういえば。見えない一神教が日本にはあるということを10年も前に山本七平の「日本教について」を読んでネットワーク分析として図まで作ったことを思いだした。ブログから再引用する。
「日本教」モデルをネットワーク分析する balance or inbalance: HPO:個人的な意見 ココログ版
- 作者: イザヤ・ベンダサン,Isaiah Ben-Dasan,山本七平
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1975/01
- メディア: 文庫
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なんというか、実に自分が勉強しても、考えても、一筋が通っていかない。勉強したことをいつのまにか忘れてしまう。実に愚かな人間だと気づかされる。15年前にきちんと正答な正統性を正当に書いてある本を読んでいて、10年前にその姿を具体的に書いている本を読み、ブログまで書いていて、また再読して実に新鮮な気持ちで「ああ、日本は見えない一神教の国なんだ。天皇陛下が立憲君主制を戦前も、現在もお守りいただいているからこそ日本の国があるのだ。資本主義、民主主義があり、自己責任といういみでの「自由」(自ら由らしむべし行動)があるのだ」と新鮮に想ってしまう。実に愚かだ。
愚かであるが故に、日々日々、勉強、思索だなあと。そして、日々の生活の中で自覚をもって行動していきたい。
*1:ちなみに、現在は「日本人のための憲法原論」というタイトルで同じ内容の本が売られているそうだ。
小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 第1章 - 人権擁護法案マガジン・ブログ版
*2:この意味において、青年会議所の憲法改正案に「五箇条のご誓文」への言及があるということの意味は大きい。
日本の憲法とは不文憲法だ - HPO機密日誌
*3:この意味で、慣習を先祖伝来の智恵として受け止める保守主義は基本的に憲法を守る姿勢だ。ただし、成分としての憲法が慣習法、生きた伝統としての国の政治と整合しないものであれば、積極的に条文は改正すべきだとなる。ここがなぜ現代日本で理解されないのだろう。いまの人の知恵は昔のすべての智恵を凌駕するほどすぐれているのか?私は自分を愚かだとして想えない。