HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「求めよさらば与えられん」

先日、キリスト教式の葬儀があり、参列した。大学生の頃、一時キリスト教の教会に通っていた。2年間くらいだったろうか。そのせいか、伴奏を聞きながら、譜面を見ながら、周りの方に合わせながら、賛美歌はいつも歌うことにしている。キリスト教の祈りとはなにか時々考える。なかなかいまだにわからない。教会に通った結論は、私は仏教徒であるということだった。祈りについて言えば、仏教では、悟りへ続く信仰と修行の入り口として祈り、心願成就があるように思う。

護摩修行とは、自分自身の心に正直に向き合うこと、真摯に祈ること。 真摯に祈るものに必ずいい結果をお不動様は与えてくださる、と信仰を持つこと。 心願を成就したいと真剣に祈ることは、すでに成功への第一歩を踏み出している。真摯な祈りは、強い決意、強い確信となる。自分の人生を生き抜く力となる。

心願成就と挨拶 - HPO機密日誌

ひるがえってキリスト教では、現世利益など認めない。ただ祈れと、信仰を持てと強調されている。しかし、賛美歌を歌っていると、「神の守り」「神ともにあり」などが強調されている。そうそう、「求めよさらば与えられん」とも言われる。原典はどこだったけと。

〔マタイ福音書七章〕
信仰の主体的決断を説いたイエスの言葉。転じて、与えられるのを待つのではなく、何事にも自分から求める積極的な姿勢が必要であることにいう。

求めよさらば与えられん(モトメヨサラバアタエラレン)とは - コトバンク

「マタイ福音書七章」とは、山上の垂訓のこと。「求めよ」はここ。

1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

Matthew / マタイによる福音書 -7 : 聖書日本語 - 新約聖書

ここは純粋に神への信仰について書いてある。ただただ、信仰を得よと。この後にさまざまな宗教に共通する道徳的根本原理について書かれている。

9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

論語では「己の欲せざる所は人に施す勿れ」とある。仏教でも慈悲心が強調される。ここでようやく自分の立ち位置がわかる。果たして、信仰とはこの道徳原理を引き出し、実行するためにあるのか?それとも、信仰を選ば自然と道徳原理を実行する人となるのか?それぞれの宗教的立場でこの問に答えなければならないと私は思う。