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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

武藤貴也氏の根っこには中川八洋先生の「正当の哲学」があるのではないか?

若手議員の武藤氏のブログエントリーが注目を集めている。正直、私にはエントリーに書いてあることに違和感はない。自分が日本国憲法によって守られ、育てられたことはその通り。だが、いつまでも与えられた憲法を守ることの方がこれからの時代は問題が大きいと考えている。

 かつての日本人は「武士道精神」にも表わされているように、道徳的に非常に優れた価値観を持っていたように思う。それは「徳」の高さを至上のものとする価値観だ。「徳」とはまさしく「勤勉」「正直」「誠実」「勇気」「謙虚」「滅私奉公」等々といった古来からある「日本人的価値観」である。今の政治を見ていると想像もつかないが、かつて日本の武士は「法」より高い次元の「徳」や「礼」で裁かれた。いわゆる「法治主義」では無く「徳治主義」だった。

日本国憲法によって破壊された日本人的価値観。|武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

元に戻って、武藤氏のエントリー。この方の思想の元には中川八洋先生がいらっしゃるのではないだろうか?少し長いが、中川八洋先生の「正統の哲学 異端の思想」から。

 国家の歴史と伝統と慣習が大切に共有され、これに発する権威が敬されているとき、政治社会は全体主義に堕するのを防がれるが故に、伝統や慣習こそは自由を育み国民の自由を守る砦なのである。過去の祖先が築き上げた伝統と慣習を相続し守成し、「平等」と「変革」のデモクラシーに抗するその英知における「保守する精神」が、美と崇高な倫理に裏付けられた自由の原理の淵源である。
 フランス革命の勃発をもって直ちにこのように観相したバークを祖として、トックヴィル、ブルクハルト、アクトン、そしてハイエクへと二百年にわたる系譜に立つ数十名の賢者が継承する「正統の哲学」、それが、自由な政治社会の光輝ある永遠と高貴ある特性とを約束する真正の生命源たりうる、といことへの覚醒が急がれているように思えてならない。

中川先生が繰り返し述べているのは、自由、平等、基本的人権を前提とした生き方は知的怠惰を産み、絶望に陥りやすいと。なぜなら子供のころから、「自分の人生、自分持ち」だと教わらない。自分はなんの努力もしなくとも、基本的人権が保証されていると。自分が不幸せなったとしたら、社会のせいだと教えられる。自分の卑しい嫉妬心も平等という言葉で美化される。自分の人権、自由を保証してくれているのは国家でることも隠蔽される。結果、ナチス台頭時のドイツがそうであったように、経済的な変動や、国家間の争いのあげくに、不幸が絶望に変わり、簡単に全体主義に陥る。あるいは、バークが見たフランス革命がそうであったように伝統に裏打ちされないデモクラシーは、独裁、国内テロ、アナーキズムに陥る。なにより、誰も自分を犠牲にしようとすることのない福祉社会は、いまの日本がそうであるように社会福祉制度によって国家財政と国の力が破壊されていく。責任の先送りが天文学的な国家の負債として子孫に残されていく。いつかは、必ず子孫はますます絶望に陥り、短絡的な思想に落ちるだろう。

「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか

「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか

武藤氏の呈する疑問は、決して荒唐無稽ではない。今一度、米国から与えられたままの憲法でよいのか?、日本人にとっての自由、「自ら由らしむべし」という生き方はなんなのかを問う必要はある。いま、私達が自分を犠牲にしてでも打ち立てなければならない社会とは、個人の徳のある生き方とはなにかを真摯に知的に問うべきだ。