「自分」という意識など放り出してしまわないと、生き生きとした生命の力にはたどりつけない。そう、マルクス・アウレリウスが教えてくれた。
古東先生の「現代思想としてのギリシア哲学」の終章の「あたかも最期の日のように−−−M・アウレリウス」を繰り返し読んでいる。
- 作者: 古東哲明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/04
- メディア: 文庫
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このわたしという存在は、それがなんであろうと結局はただ、肉体とすこしばかりの息(プネウマ)と、内なるト・ヘーゲンモニコン(指導的部分)よりなるに過ぎない。
古東先生は、これはアウレリウスの「自己消失」なのだという。先日、古い友と話したように認知科学や脳科学の知見からいっても「私」など幻想に過ぎない。いきいきとした情感、私の「身」全体から生み出される意思、からだに刻まれた記憶。「私」という意識を消失させて、残るもの。肉体と息と内なる意思が「私」より先にある。「私」など捨ててしまってからでないと見えてこないものがそこにはある。
言葉を引用して、マルクス・アウレリウスの至った境地に迫りたい。
あたかも死者であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局でもあるかのように生きよ。
完成したエートス(居ずまい方)の特徴は、毎日を、あたかもそれが最期の日であるかのように、すごすということ。
ひとつひとつの行為を、一生の最期のことのようにおこなう。
いますぐにも人生を去っていくことのできる者のように、あらゆることをおこない、話し、考えること。
(引用元記号省略)
この視点でこそものが見えてくる。「死に近き者こそ生に近き者」なのだ。
なおかつ、古東先生はありとあらゆるものが「同一の平面」に存在しているために関係性を結ぶことができるのだという。死からよみがえってきた者には、生成と消滅としてあらゆるものひとつの平面上に存在するのだろう。そして、それは現代のネットワークの考え方、そして、べき乗則につながるのではないだろうか。同一平面状で関係が結ばれ、生成と消滅があるなら、自己組織化現象は充分に起こりうる。カオスとコスモスは、フラクタルと自己組織化で記述可能ではないかと考えられる。
私にはここで充分だ。あとは、外へ出て行動するだけだ。