たまたま、東京ステーションギャラリーに立ち寄った。見どころ満載の横山華山の展覧会だった。
「祇園祭礼図巻」が私にはとても突き刺さった。一人ひとりが役割を持って祭りに参加している様を実に活写している。お祭りを思う人の気持ちは数百年経ってもも変わらないのだと。詳細な祇園祭の記録ともなっている「祭礼図」に横山華山自身の自分のふるさとへの思いを感じる。
横山 華山(よこやま かざん、天明元年(1781年)または天明4年(1784年)[1] - 天保8年3月16日[2](1837年)は、江戸時代後期の絵師。
名は暉三、または一章、字(あざな)は舜朗。通称は主馬。中国名風に「黄華山」と署名する例もある。京都出身(越後出身説あり)。福井藩松平家の藩医の家に生まれる。白井華陽著『画乗要略』によれば、若い頃は家が貧しく生計を立てるため、北野天満宮で砂絵を描いてその日暮らしをしていたという。西陣織業を営む横山家の分家横山惟聲の養子となり、本家が支援した曾我蕭白に私淑。始めは養父の師である狩野派の絵師江村春甫につき、長じて岸駒に師事、のちに円山応挙や四条派の呉春の影響を受けた。一般に絵師は晩年になると筆力が衰えるとされるが、華山は例外で最晩年に至るまで雄渾な大作を手がけている。
横山華山 - Wikipedia