HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

看取り

本書に描かれた花田少年の活躍こそ、死の看取りだ。

花田少年史 (1) (アッパーズKC (170))

花田少年史 (1) (アッパーズKC (170))

花田少年史 (2) (アッパーズKC (171))

花田少年史 (2) (アッパーズKC (171))

花田少年史 (5) (アッパーズKC (230))

花田少年史 (5) (アッパーズKC (230))

途中から読み始めて、設定もなに分からなかったのだが、ああ、心に残る物語だなと。最後の番外編での蕎麦屋のお父さんの話しを読んで、これは死の看取りなのだと確信した。人は死ぬときに、やり残した事への思いをもって旅立つ。たぶん、凡人はみなそうだ。そのやり残したことへの思いを聞くだけでも、看取りになるのではないだろうか。いや、やり残したことへの想いを感じてあげることこそが、看取りの最終プロセスなのだ。

死者の代弁者という話しが、「死生学年報」に載っていた。オースン・スコット・カードの作品から影響を受けたのか?と想った。

死者の代弁者〈上〉

死者の代弁者〈上〉

死者の代弁者〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

死者の代弁者〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

花田少年はまさに死者の代弁者なのだ。亡くなったあとに、彼にだけ見える幽霊たちの願いを成就させて旅立たせていく。ひとつひとつの物語に感激した。残した思いは、愛だから。生きている者への想いだから。

考えてみれば、四十九日、一周忌と続く法要も、無言の死者の代弁者行為かもしれない。亡くなって時間がたつ中で、あらためて亡くなった故人に思いをめぐらすとは、その人が残した思いを自分の中で新たにすることだ。

今日は年若い知人の葬儀があった。彼の残した思いは何であったか?言葉にださないくとも、感じてあげたい。