「伝習録」を読み続けている。まだ上巻だからかもしれないが、非常に抽象的な議論が多い。これを山田方谷や、河井継之助はどう読み取って自分の生き方、藩政に生かしたのだろうか?表面的かもしれないが、禅僧が孔孟を論じ、朱子学を批判するとちょうどこんな感じになるように読める。「自己の心の本体を十全に発揮」とかまるで全機現。ひたすら「私心」を去れというのも、自我や、まよいを捨てよと聞こえる。まあ、私の野狐禅のレベルだから、そうとしか見えないのかもしれない。
- 作者: 王陽明,溝口雄三
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/09
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ただし、これはいただけない。
九一 「『明徳を明らかにする』ことだけを説いて、『民に親しむ』ことを説かなければ、老荘や仏の教えにまぎれる」
仏法の教え、仏道は本来とてもパワフルな生き方だ。仏をもって自分の人生を生き、仏をもって仕事をすれば、自ずと道ににいたる、と。王陽明の言う至善に留まり、明徳を明らかにし、自分の本性に還ることを、特別に政治に応用する言は必要ないのではないだろうか?「知行合一」と力まなくとも、仏道は行動にあることは自明だ。
- 作者: 安岡正篤
- 出版社/メーカー: 明徳出版社
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安岡先生の「王陽明研究」を読んだのははるか昔なので、いまひとつ記憶が不分明なのだが、王陽明は若い頃には相当に仏教を極めようとした。坐禅も組んでいた。「龍場の大悟」は坐禅中のできごとだと記憶する。
結婚式では、「修身、済家、治国、平天下」は自分のモットーです、この教えのままに歩みますと宣言した私なので、まずは「伝習録」を最後まで読み通し、「格物、致知、誠意、正心」がなんであったかは理解したい。
しかしどうみても、陽明のメッセージはロジカルではなくて、仙人や禅僧っぽかったのである。実は『伝習録』がよく読まれてきたことには、その魅力もあったのである。