HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

太平洋戦争開戦

吉田茂」の太平洋戦争開戦前後の頃にようやくたどり着いた。

赫奕たる反骨 吉田茂

赫奕たる反骨 吉田茂

工藤美代子は、ハルノートの冒頭に「極秘文書。試案にして法的拘束力無し」とあった一行を、御前会議までに削除したことを重要視している。実際、「戦争遂行機密日誌」にもハルノートが最後通告であったと受け止められたことを喜ぶ記述があるという。

しかし、実際には「乙案」の締め切りの11月末までに来た回答がハルノートという「試案」のみであったことをもって、日本と米国は戦争状態に入ったと考えるのが歴史の流れではなかろうか?

インターネット特別展 公文書に見る日米交渉

一度、公文書館ハルノートと、甲案、乙案を見に行きたいものだ。実際にどのような形で米国に乙案が伝わっていたのか、案外資料がない。


■追記

乙案はあった。

甲案は英訳されていないという話しがあるらしい。

しかし英訳文を見ると甲案が英訳された形跡がありません。アメリカに提出されている外交文書は、乙案をベースにしています。以下、その提出された外交文書です。

ハル・ノートをめぐるさまざまな誤解

透けて見えるのは、「国益」ではなく、分裂した「聖域」があるだけのなさけない国家体制だと。

アメリカと戦う以前に政府(行政)と大本営(作戦)、陸軍と海軍が組織として四つ巴に権力を行使していたのである。私は日本の戦争理論はここに集約されていると思う。日本が戦争に訴えた国益とは組織の建前・本音・機密・秘密のなかに翻弄されていたのである。

404 Not Found

そして、今の我々は当時の国益なき聖域体制をひとつも笑えない地点にいる。

 エリート軍人たちは、10数万人の戦死者という犠牲者を出し、多大な投資をしてきた満州及び中国大陸の権益は絶対手離せないという頑迷な考えから最後まで抜け出せなかった。その結果、世界一の軍事大国・アメリカに戦争を挑む羽目になり、一桁多い 310万人という戦死者を導き出した。本土決戦までして面子を保とうとした立派な!軍事指導者達のおかげで私の父は、その中国大陸から生きて還って来られなかったということである。

404 Not Found