HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

死は緩慢に訪れる

たまたま、ちょっと疲れて横になった。

寝るときに、意識が消えていく瞬間みたいのを自覚した。

不思議なことに、意識が消えても、自分が消えるなんてひとつも思わない。寝ていても自分はそこにいると寝る前も、意識が消える瞬間も、起きたあとも信じていられる。寝る前の自分と寝る瞬間の自分と起きた後の自分が同じ自分であるなんてひとつも保証はないのに、自分は一貫していると胸をはっている。

たまたま^2、家人と知識と自分の体験で記憶の仕方が違うよねという話をした。

記憶には、エピソード記憶といわれる自分の感情やら体験やらで構成されるものと、知識的記憶という論理というか公理系の広がりというか百科事典的というかそんばしばしっとつながっていくモナドみたいのでできてる記憶とがあるように思う。

明滅する記憶と発想 - HPO:機密日誌

同じ家族でも、エピソード記憶に長けたものと、知識的記憶に長けたものがわかれるよねという話になった。当然、ペーパーテストすると知識的記憶に強いものが点が取りやすいのだが、ごくごく家族のエピソードが思い出せないことがあったりする。まぁ、私自身がどちらかというとそういうタイプなので、むべなるかなとも思ったりするのだが。ごく普通にいえば、エピソード記憶に長けているもの方が人間関係はうまくいくのだと思うのだが、それはまた別な話。

いずれにせよ、意識に上らせることができる記憶なんてごくごく頼りなげなものだ。記憶を頼りに自分が自分であることを証明するなんてあまりにはかない。肉体の記憶なんてのも物質的には3ヶ月で入れ替わってしまうもの。DNAすらスイッチオンしたり、オフしたりするとかいうではないか。自分が自分であることの意識的な証明なんて存在しない。

それでも、自分が自分であるというのは、意識以外の「夢の時」でしか触れられない全体性の中で自分の絆が存在するからではないか。意識の消える瞬間に思っていたのは、心臓が停止してしまうほど自分の意識と脳が劣化してしまっても、残るものがあるなという感覚だった。なにか自分の絆がほどけていくようなごくごく緩慢な過程が死ぬ時にあるような気がする。ああ、そう、それに一番近いのは村上春樹の「世界の終りとハード・ボイルド・ワンダーランド」だな。百科事典棒というやつだ。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

つまりは、意識なんて表面にすぎないんだなと。