HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

学問をやりたければ医者になれ、と

生活が安定しているということはとても大事なことだ。

一度、医者っぽいものを目指したのだが、全然違うポイントに立っていることに気づいてずいぶんくやしい思いをしたことがある。

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ。孔子ノ意、スナハチ亦、此レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ。僕、茲ニ取ルアリテ、至ツテ和歌ヲ好ム、独リコレガ為ノミナラズ。僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ」、「和歌ナルモノハ、志ヲ言ウノ大道」であり、これと類を異にする儒の「天下ヲ安ンズル大道」に拮抗しようなどと、自分は考えた事はない。

ついさっき人に「修身斉家治国平天下」の意義の話をしたばかりだ。笑うしかないね。

従って、彼の論戦は、相手を難ずるというより、むしろ自分を語っている。彼に問題なのは、実は、儒学自体ではないので、相手が、儒学を自ら掴んでいるか、ただ儒学につかまって了まったに過ぎないかという、それだけが宣長にとって、切実な問題なのだが、そういう彼の心の動きが、遂に、「論語」に孔子の「風雅」を読んで了うのである。「孔子ノ意、スナハチ亦、此レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ」、これは、宣長の自己の投影である。其処から、彼は、「論語」にしばしば使われている、孔子の「楽」という言葉の深さについて考えている。

この前のリスクの話とからめてよいのだろうか?すくなくともブログを「好ム」としかいいようのない側面が自分の中にある。これは単に人になにかをアピールしようという欲だけではないと自分で信じたい。アピールするだけなら私はリアルで十分できる。

それでも書くことに中毒している私という存在は例の「自慰をおぼえたサル」状態なのだな。死ぬまでマスターベーションがやめられないサルなのだ。

ことばはえっちのためにある - HPO:機密日誌

私というサルにとってもしかするとはてなという場所はとても居心地のよい「場」なのかもしれない。ま、それはともかく。

ところで、彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであった。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受け取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、ある種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。

ここに昔の人の「勉強」と今の我々の「勉強」の差を見てはいけないのだろうか?

古典を読むのも、ただ新皮質で思考するのではなく、素読し音読し、「志」という言葉で情動を高め、はるかに多面的に身体を使って、ということは結果的に脳全体を使って学習していたのではないだろうか?

伝国の辞 - HPO:機密日誌

当然問題になるのは、現代の我々にそのような「物まなびの力」を会得することはできるのだろうか?それも、非コミュな私がこのネット界隈に生息しながら。

「やすらかに見る」という言葉を、曖昧と見て、帰納的方法とか或は実証的な観察と言い直してみたところで、「さとりなき人は、げにもと思ふべけれども、返ってそれはおろかなる註」ともなりかねない。

はい、おっしゃる通りです、小林先生。