HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

いまここにあるもの

某所で性の問題からはじまって、世界の原理の話、仏教の話と進んだ。めぐりめぐって、正法眼蔵の仏性を読み直していた。同時に倉田百三の名文に出会った。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000256/files/43133_17950.html

やはり世界はつながっている。

がその女性の霊性というものは、やはり宗教心まで達しないと本当の光りを放つことは期待できない。霊性というものも粗鉱や、粗絹のようなもので、磨いたり、練ったりしなくては本当の光沢は出ないものである。仏教では一切衆生悉有仏性といって、人間でも、畜生でも、生きているものはみな仏になるべき性種をそなえているという。ただそれを磨き出さなければならない。

なぜか、「身現円月相」という言葉が残った。

it1127さんありがとう!

これまた倉田百三がよろこびそう!

男が出来るまで by palさん

それで死ぬほどうんざりした。こいつら、ほんと現金だなと思い、「死ねよ糞袋が」などと思ったこともあった。女性を注意深く観察するようになったのもその頃からで、笑いかたや媚び方,話し方などから、女性の本心や性格を推し量る癖がついたのもこの頃からだった。

なんつうかどうしようもない女性の下世話なところと、天上から降りてくるほどの純粋さが同居できるのが昔から不思議だった。なんという矛盾!なんという魅力!肉体性と精神性が融合することなく同居できるという不可思議さ!

「魂」というのは、常に天上を目指す人間のエレメント、そして「魄」というのは地上につなぎとめておこうというエレメント。そして、男性にも女性にもこの「魂と魄」があるんだそうですが、男性の方が「魂」が強く、女性の方が「魄」が強く量が多い。そして、男女の交歓(=交換)を通じて男の魂と女の魂、女の魄と男の魄がそれぞれ呼び合い、互いに調和するときに初めてまつたき存在としての人間になれるんだそうです。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/10/post.html

それでも、倉田先生が正しいと思う。どれだけ女性に失望させられ、どれだけ女性に平常心を失わされることがあったとしても、女性を愛で、女性を崇拝し、女性を大事にするのが男としての生き方だと私は信じる。いや、体験がそういわせる。