HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

みにくいアヒルの子の定理と価値観

価値観がなければ生きていけないという話。

分類という思想

逆に言えば、分類することは重要な基準を選ぶこと自体なのだ。

なるほどと強くうなづきたい。

◆「醜い家鴨の子の定理」について
渡辺慧「認識とパタン」(岩波新書)に出てきた概念で「みにくいアヒルの子の定理」ってのがありまして。すごく大ざっぱに言えば「アヒルと白鳥の類似度はアヒルとアヒル同士の類似度に等しい」というものです。

んな、バカな、と思うでしょうが、「アヒルでも白鳥でもない物」「アヒルであり、同時に白鳥である物」等という分類が可能なので、アヒル・白鳥両者のアヒルに対する類似度は現実的にまったく変わらない、と言えるという事なんですね。ちゃんとした数学的な証明もあって、ググればどっかにあります。URLは失念してしまったのですが・・・

この「醜いアヒルの子の定理」を知ってしまったのは高校生の頃だったのですがその影響で、どうしても「正しい」「間違っている」という議論をするのが意味が無いような気がしてしまう。結局机上の議論は意味がなくて、実際のブツをどうやって作るノカ、それだけが意味のある、比較できるものだと思うのです。

つまり、議論よりも実際のブツを見せろと。実際のブツだけが議論の結論を正当化できるものだ、と思うのです。そういう意味で現物(現実じゃないよ!)主義、概念よりも実際のモノ、ナマモノの方が偉いとだと。そのせいでしょうか、精神の失調は、肉体をいじめると直る、と何故か信じているのは。ようするに、肉体の方が精神よりも偉いと信じているのですな。実際はそんなこと根拠も何もないんだけどね。

アマグラマ雑記2003(最近Warp3で遊んでます)

感情の中枢を破壊してしまうと動物ですら意思決定できなくなってしまうという。

複雑系科学を科学哲学する 16
http://www.affrc.go.jp:8001/dgc/DGCboard/messagesJ/622.html

認識とパタン (1978年) (岩波新書)

認識とパタン (1978年) (岩波新書)