HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ことのはのいづるたびに

日本語ってすばらしい。

ことばを使う度にその歴史、先人の「ズンと」来るものへの探究を感じる。

拙いものであっても、ことばが腹に落ちた体験をある人に語ったのだが、「宗教体験ですか?」と言われた。

今の日本で惜しいなと思うのはこうした感性だ。先人の残してくれたもの、千手観音のようなありとあらゆる「手」で救い上げようとする便法が充溢しているというのに、我々の目はあまりに曇らされている。

EQなんてことに脳科学まで持ち出してまじめ取り組む米国人の方が道に近いくらいかもしれない。

ただただ、うちに自ら省みる。

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

■追記

この言葉って存在しないの???

グーグル - 「ことのはのいづるたびに」

確か「星の時計のリデル」にあったと記憶しているのだが...

星の時計のLiddell (2)

星の時計のLiddell (2)

なぜ日本に市場主義経済が根付かないか?

日本教があるから。

「日本教」モデルをネットワーク分析する balance or inbalance: HPO:個人的な意見 ココログ版

逆に、昨今「普通の国日本」というか、「強い日本」論が今後取り沙汰されるのだとすれば、それは実体語としての日本経済がいよいよ行き詰まったということ示すのだろう。

[書評]日本教の社会学: HPO:個人的な意見 ココログ版


市場が自律的な調整機能を、つまりは集合知を、発揮するためには、参加者の多様性が大前提となる。個々の参加者は全ての情報を持っている必要はない。逆に言えば、一人一人が頭につけた見えないカードをあてあうゲームこそが市場なのだろう。

しかるに日本においてはすでに情報は飛び交い、判断は均一化している。まして相手がなにを考えているかを、ことばにならないうちから察する技術に長けている。

つまりは異常にけわしいフィットネス・ランドスケープ(適応度地形)が、これまた異常な変化を続けることとなる。

この観察は出口戦略がひとつも見えていないにもかかわらずレバレッジばかりきかせるファンド群の一斉の崩壊の危険性というありがたくもない不吉な予測に私を導く。

■追記

決して今日の今日のことを言いたいわけではなかったし、いまもない。

■ぶくまにおこたえするのもお恥ずかしいのですが...

コメントいただきました。

市場と多様性の説明部分が分かりにくいです。

はてなブックマーク - HPO:機密日誌 - なぜ日本に市場主義経済が根付かないか?

さすがです。これは本に書いてあったことを納得しないまま書いてしまった私の浅はかさの典型みたいな話しだからです。

投資の科学 あなたが知らないマーケットの不思議な振る舞い

投資の科学 あなたが知らないマーケットの不思議な振る舞い

もちょっとよく考えて見ます。

表面的には、なんつうかファットテールロングテール)的に分散が値が無限に大きい母集団があって、その中から正解者はビンゴ!ってな感じでメジャーに進出していく仕組みを前提にしてるのではないか、と。日本ていうのは異端があんがいなくって、投資のスタイルとかも均一なので、投資家の数が増えてもロングテールでなく正規分布的になってしまっているのではないかな、と。

逆にコンプライアンスというか、投資関係の情報公開にこれだけ神経質に米国がこだわっているというのも、多様性を涵養するためには、前提として誰でも同じ情報に接していることが大事だと。逆に言えば誰かがインサイダー情報を常に握っているという状況では、多様性そのものであるロングテール部分の投資家が圧迫されてしまうからではないかなと、私は思いました。

無限...

なんつうかうまくいえないんだけど、つーか科学のも数学のも素養のない私に扱えるわけがないんだけど、カウフマンの向き合っている「有限の要素で記述できないもの」って、数学の「無限」と違うものだという気がする。

そうすると、常に進化しつつある生物圏は、文字道理予測不可能で、非アルゴリズム的で、われわれの予測能力を超えた何かを行っているということになる。それは量子的な不確定性のためだけでも、決定論的カオスのためだけでもなく、それとは異なる、さらに深遠な、なんらかの理由のためだ。宇宙における、創発と絶え間ない創造性は現実に存在するのだ。

カウフマン、生命と宇宙を語る―複雑系からみた進化の仕組み

カウフマン、生命と宇宙を語る―複雑系からみた進化の仕組み

序文から引用したこの部分の前には、「前適応」、「外適応」の話がでている。つまりは、「進化に関係ないんだけどたまたまそなわっちゃってた要素が次の段階へ行った時めちゃめちゃ大事な要素になったりするんだよね」ってやつだ。

フィットネス・ランドスケープ(適応度地形)の多様性の問題とか、物理現象の観察で小数点以下何桁まで有効桁数とるかとカオスの問題とか、私の生半な理解の整数論なんかで出てくる無限とは明らかに違う、「可能性の無限」みたいのを示している気がする。

それは、必ずしも人の世界にそのままあてはまるわけではないのだとわかってはいるのだけど、人と人とのリンクがフィットネス・ランドスケープがはらむ「深遠ななんらかの理由」に近いものを生む力を持っているのだと、私は信じたいと思っている。