HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

仏印進駐、南進は合法だった

「戦争まで」の中で、私としては驚きを感じたのが、仏印進駐が二度ともフランス政府との合議の上で行われたという事実。三国同盟を結んだ結果としての、仏印進駐であったと。

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フランス領インドシナは、1887年から1954年まで、大日本帝国により占領された一時期を除きフランスの支配下にあったインドシナ半島インドシナ)東部地域である。現在のベトナムラオスカンボジアを合わせた領域に相当する。

フランス領インドシナ - Wikipedia

北部仏印進駐
ナチス・ドイツのフランス侵攻によりフランスは敗北し、1940年6月17日には独仏休戦協定が締結された。これをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。当時のフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリー駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関)の受け入れを行った。


6月22日に成立したヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクーを後任の総督とした。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリー大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された。


(中略)


日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定
1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった。7月14日には加藤外松駐仏大使がヴィシー政府副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた。ヴィシー政府はドイツの意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使オットー・アベッツは旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した。

仏印進駐 - Wikipedia

Wikipediaの書きっぷりだと不鮮明だが、最近の歴史学の研究、フランス政府の資料公開によると、二度ともナチスドイツの傀儡政権であったヴィシー政府は日本の進駐を認めたのだという。少々長いが、Amazonの書評からの引用。

1940年7月、フランスはドイツと休戦協定を結び、「ヴィシー政権」が成立した。著者に依れば、ヴィシー政権は、ヨーロッパに覇権国ドイツが成立したときに、ヨーロッパ第二の有力国家になることを目指して、海軍力などの温存を図った。ドゴールはロンドンに「亡命政府」を作ったが、もちろん力はなかった。イギリスは、アルジェリアのオラン沖に停泊していたフランスの軍艦がドイツに接収されることを恐れて、これを攻撃し、フランスに千人以上の死傷者をもたらした。この瞬間、フランスの伝統的な対英攻撃心が蘇り、それはインドシナでも英仏対立の感情を引きずった。*1


インドシナの「フランス総督府」は、どうすれば良かったのか。
ヨーロッパではドイツが、アジアでは日本が「覇権国」になる可能性を踏まえて、とりわけ、「援蒋ルート」に神経過敏な日本軍との「協力」と「インドシナにおけるフランスの主権の保持」を第一義的な目標とせざるを得ない。本国はもとよりイギリスの支援も期待できない状況で、水面下でアメリカにも密かに支援を求めるが、アメリカはドイツの300万人、日本の130万人の兵力に対して、23万人の兵力しか無く、この時点で戦闘に入れる状況にはなかった。従って、フランス総督府は、現実的に考えれば日本が最大の顧客であるという経済関係も重視して、日本との交渉に活路を見いだすしかなかったのである。


その結果、1940年9月「北部仏印進駐(これはあくまで平和的な「進駐」であって「占領」ではない)」となり、日本は複数の「援蒋ルート」のうち、最も重要なインドシナの鉄道を利用した「援蒋ルート」を掌握できた。巧妙なフランスのサボタージュによって完全ではなかったが、ビルマ経由と西北ルート以外の補給路にに睨みをきかせることが可能となった。


この間の日本の外務省、陸軍、海軍のフランス総督府との交渉は、まさしく帝国主義の時代のやり方である。それが国際基準であった時代の話だが、フランス総督府の息を止めるようなことはしていない。フランスは海南島マダガスカルニューカレドニアにまで植民地を持っていたし、日本もまた、「中国戦線における国民党牽制」が一義的な目的だったからである。


しかし、この「平和的進駐」は、当然「南部仏印」まで視野に入れていた。北部だけでは、日本軍の目的は安定的に維持されなかったからである。さらに、シンガポールを拠点とするイギリスの存在が視野に入っていた。「南部仏印進駐」は、その翌年、1941年7月末に行われた。7月14日に、日本は総督府に要望を出したが、北部仏印進駐に際して起きたような駆け引きは無かった。総督府は、アメリカに通告したがアメリカは既にヨーロッパ戦線を一義的戦場と決定しており、介入する意志は示さなかった。従って、短期間に日本の進駐は行われた。しかし、日本と総督府の協定書調印の3日前に、アメリカは「日本の在外資産凍結」を決定していた。アメリカの公式的見解は、「戦争を意図したものではない。日本が音を上げて降参してくるか妥協してくることを望んだものだ」というものである。

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「戦争まで」の中で、戦前の陸海軍と外務省の中堅官僚達の討議録が紹介されていた。その中では、ドイツの欧州での勝利を前提として「戦後」の処理が語られていた。彼らからすれば、三国同盟とは、第一次世界大戦日英同盟と同じで、戦勝国と組んで漁夫の利をアジアで取ろうという戦略であった。とすれば、日中戦争が長期化していくなか蒋介石を支援する英仏の援蒋ルートを途絶させるためにも、同盟国ドイツの支配下となったインドシナに平和裏に進駐するのは当然の結果であったし、当時の帝国主義的思想から言えばやらなかったら「機会損失」の汚名をなげかけられない決定でったのだろう。

歴史の教科書の中でも、仏印進駐の背景はきちんと教えるべきだろうと私は思う。正直、歴史の教科書の中で帝国主義的な思惑のなかでかなり唐突に、かつかなり悪意をもった書きっぷりで仏印進駐が記述されていたと記憶する。

近代の歴史はよくよく教科書から離れて学び直す必要がある。

*1:この少し前に起こった、フランスに取り残されたイギリス兵士40万人の脱出が「ダンケルク」という映画になる。大変楽しみ。 映画『ダンケルク』特報2【HD】2017年9月公開 - YouTube