HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

スカイクロラ :押井守の描く恋愛

押井守鈴木敏夫の対談を聞いている。聞いているうちにあまり考えがまとまらなくなった。スカイクロラが描く閉塞的な世界はほんとうにリアルな話で、アニメ業界ですらもう人材がいなくなっていて一定以上のクオリティーの作品はできないだろう、と。映画自体も、制作体制というリアルも実に希望のない話だね。

鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫

しかし、この閉塞感こそが私たちの未来なのかもしれない。

この数百年は世界が一気に縮んだ。言葉を換えればひとりひとりがアクセスできる範囲は、空間としても時間としても爆発的に拡大した。誰でもその気になれば地球上のどこへでもいける。そこら辺の図書館にいけば、過去から未来にわたって人類の叡智を好きなだけ味わうことができる。ネットはすべての時間と空間をこのディスプレイと私の間という点に縮約させた。

過去においてもっとも大切であったのは、時間と空間が拡大していくという疾走感、期待感を持てたことではないだろうか?たとえば、ありとあらゆる金融手法は個々人の期待をベースにしている。株が将来あがるだろう、商品はインフレ率程度は値上がりするであろう、この企業は新たな技術開発を行いヒットをだすであろう、生活の選択肢はますます広がるだろう、等々。

日本はこうした近代の期待感の最先端を走ってきた。欧米の金融どもと一部の政治家にはめられたことや、いまだに戦後を脱していないことには実に私も憤慨する。それでも、最も完成された社会を築いてきたことは間違いない。口約束ですら守られ、電車は時刻表通りに動き、ゴミは収集されていく。経済成長が鈍化し、経済的な悲劇はこれからも続くだろうが、システム自体が崩壊する気配はない。

しかし、すでにこれから先への成長の期待はなくなったと多くの日本人が感じている。いつぞや会った中国の青年たちの期待に満ちた輝く瞳と、将来に希望を持てない日本の若者たちのうつろな瞳の対称性はすさまじい。

いったい期待感ゼロの社会というのものは存立しうるのか?というか、ついこの間まで技術開発も移動手段の進歩も顕著なものではないという期待感ゼロの社会がごく普通だったわけだが、そこへもどることはできるのだろうか?

スカイクロラの世界は、そんな停滞した世界だ。*1

逆を言えば、期待感ゼロの世界は実に平和だ。すでにどこにもアクセスできる空間を区切るフロンティアはない。自分たちの生活をとことん変える技術革新もそうそうはなさそうだ。いわば、戦争をキルドレたちに担わせ、自分たちは平穏に暮らせる。

*2

菊地凛子草薙水素が実によかった。なんども同じ毎日をくりかえさなければならない子どもであり大人である草薙の絶望が感じられた。草薙水素の不安感にみちた瞳はどこかあぶなげであり、疾患との境界にあるように見える。菊地の声はそうした平坦さと不安に実にマッチしていた。というか、菊地凛子の瞳はいまの若者の瞳なのかもしれない。

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原作も見終わってから読んだ。セリフの多くは小説から採られている。物語の大筋も同じと言っていい。しかし、押井守森博嗣とでは意図したメッセージが違う。できあがった作品としては違う。

そう、ユーイチだ。原作では函南優一は、常に「ユーヒチ」と書かれていた。結末も含めて、ユーヒチとユーイチは別人格だといっていい。だからこそ、フーコの扱いも森博嗣押井守とでは違う。最後のユーイチの長ゼリも原作からの引用ではあるが、置かれた場所が変われば意味も違う。この違和感をまだ言葉にできない。押井守と伊藤ちひろのコンビは実に素敵だ。どこまでが押井の主張で、どこからが伊藤の表現なのか私には区別がつかなかった。

スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

それってリアルだけど、はなはだ辛気くさい話で、押井守は鬱映画の巨匠だという思いを再確認しました。

スカイ・クロラ見てきた: たけくまメモ

しかし、その辛気くさい世界を私たちは生きていくしかないわけで。どうやってその辛気くさい世界を生きていくのかといえば、優一と水素のような愛しあい方しかない。それしかないのだ。時間と空間に対する期待がゼロであっても、男と女は愛し合える。

レダ (1983年)

レダ (1983年)

それで...恋愛について話さなければならない。つまりは、森博嗣スカイクロラには恋愛がない。押井守ははっきりと今回の映画は恋愛映画だといっている。考えてみれば、これまでの押井作品には恋愛は描かれてこなかった。愛はあっても、恋愛ではない。愛も物語の構造としてのみ意味を持っていた。ユーイチとスイトの絶望的な恋愛は、絶望的だからこそ胸に迫る。

This is my war. I will kill my father.

私にはそう聞こえた。そして、このユーイチの生き方こそが希望なのだと私は信じる。

■参照

原作において、別に函南は水素を愛しているわけではないと思うのですね。

『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(監督:押井守、原作:森博嗣) - Masashi’s Web Site Memo@はてな

「I will kill my father!」

勝てるとは思っていない。
自ら“終わりにする”という単なる否定でもない。
永遠への挑戦、きっと何かは変わる、永遠のループの中の“新たな始まり”の時に。

『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(押井守) - 愛すべき映画たち

As the Japanese youth, the children in Sky Crawlers do not grow up, they stay naive and irresponsible. In the movie they ultimately face death by the hands of an adult - their parents? The last cry of Kannami is "I kill my father"...

ZEITGESTADE: スカイ・クロラ / The Sky Crawlers

それは、最後のほうで、主人公である函南優一は、現実感を全然持たない演出は変わらないまま、絶対に勝てないといわれるティーチャーへ明らかに無謀な戦闘を試みるんですが・・・・ここに、僕は、誤魔化しではない現実感の希薄な現代社会で命を燃やす方法を語っているようで、とても強い意志を感じました。

『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ編 - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

*1:ちゃんと冒頭に「どこか日本とよく似た国」ってかいてあるもんね。この一行を言いたいために、私は何行かいてるんだろう...orz

*2:予告編まつりを発見したため一時中断。その後、なぜか私のPCでGyaoが再生できないことが判明。残念!