HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

警察は変わらない、変わったのはネットの存在だ

考えるべき課題としてここにおいておく。

ここのところの一連の事件で検察や、警察、もっと言えば国の権力の在り方について疑問を持った人は多いと私は信じる。しかし、それは警察なり、検察なり、お役人側が変わったのではない。変わったのは、私たちの方なのだ。

たとえば、警察はこれまで治安の維持に必要で、一罰百戒の事例には必要だと判断されることをしてきた。新聞などのマスコミも治安維持のためだと協力してきた。絶対的にただしい判断はありえないし、社会もおおらかな部分があり、なによりもルールがいまほど厳格に国民の側でうけとめられていなかった。

この部分的適応は、ネットの興隆により崩れ、より高い適応度地形の山を目指さなければならなくなった。大きな治安維持の前には目をつぶっていたささいな不適格は問題とされなかったのが、ネットのもたらす知識が変えてしまった。これを国民性が不寛容となったとらえるのか、より高い「法の支配」を目指すきっかけととらえるのか。いまの混乱は過渡期の混乱にすぎないのか。

私は世代交代しかその答えの実現はありえないと信じる。古い世代は古い考え方を変えられない。そして、古いリーダー層はこの10年で引退せざるをえないほど老齢化している。新たな世代の新たな闘争の始まりだ。夕暮れの帝国を支配する原理をみつけなければならない。

あるいは、言葉を換えれば、携帯電話とか、家電、あるいは車など、世界の主流はチープだけど手軽な商品になっていくなか、ハイエンド化しすぎガラパゴス化したと言われるように、治安維持活動すらもオーバースペックなのだと。規制緩和をすることが選択枝を増やし、物理的な財の価値を増やすのだという合意形成がいまだないと。

合意形成に考えがいたると、どうしても人は人とくらべはじめて足を引っ張りありの傾向に触れたくなる。みんな法の下に平等であっても、経済活動や政治活動により格差が強調されると警察が目立つ人物を引っ張るとヒーロー、よい代官になる。当該の人物にとっては自分の努力と創意工夫の正当な評価だと思っているのに。

結論のでない合意形成は合意形成ではない。新しい世代の闘争が混乱に陥るのだとすればその結果は、ゆるやかな階級社会による声の大きさの整理に行き着かざえるを得ないのか。

あるいは、合意が可能かごくごく簡単なルールに法律体系をリストラするのか。生活自体をごくごくシンプルにするというのも有効なのかもしれない。酒はあまり飲みすぎないとか、選挙には出ないとか。うーん、それもなぁ。

いずれにせよ、この辺が法と法の執行が底なのだろう。この2つを役人に委ねた田中角栄はなるほど社会主義者といわれても否定できない。

「羊羹を切って、一番ちっちゃい奴に一番デカイのをやる。社会主義共産主義と、分配のやり方が違うんだ。生まれて3、4歳の子供に、ガマンしろではおさまらない。大きい奴には、少しくらいガマンしろと言えますがね。これが自由主義経済というものだ。」

さくさべ直…ノンセクト・ラジカル隠居の穏やかな日々

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