HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「次の一戦」出版事件と田母神論文事件

NHKのラジオで聞いた。

あとで調べて書く。

ながいけど、引用させていただいちゃおう。

日露戦争中、水雷艇隊の指揮官を務め、1919(明治44)年3月に日露戦争を描いたノンフィクション『此の一戦』(博文館)を執筆、一大ベストセラーとなり(陸の『肉弾』〔桜井忠温、松山出身で水野と同じ中学校卒〕とともに、戦記文学の双璧〔明治戦争文学の最高峰)とされた〕一躍時の人となった海軍中佐水野(当時)は、1914(大正3)6月、フィクション仕立ての近未来小説「日米開戦」である『次の一戦』を出版した。


この本が執筆されたときは、パナマ運河の開通直前であったが、当然のことながら、運河開通を前提に書かれている。その内容は、その内容は、緒戦で日本が勝利を収めるが、米国は大西洋艦隊を回航して優位に立ち、主力艦隊決戦で日本は敗北するともの、つまり、米国大西洋艦隊の存在が日本にとって軍事的脅威になったとされているが、著作の真意は、敵国の強大さを立証した上で、日本の敗北を描き、日本の軍備増強を訴えたものであった。


すなわち、30余隻の運送船に乗った約12万人の日本陸海軍がフィリピンを攻撃、リンガエン湾とラモン湾に上陸に成功するが、しかし、日本艦隊は米国増援艦隊との会戦に敗れたあと、沖縄近海で追撃を受けて全滅するというストーリーである。

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ラジオでやっていたのは、この水野氏の自伝の朗読であった。匿名とはいえ現役の海軍中佐がどうどうと「一海軍中佐」として、軍の許可を得ないで出版を行ったことが問題になったと90年を経て田母神事件と同様の展開があった。海軍大臣まで含めて相当な騒ぎになったものの、今回の事件とは対照的に謹慎5日ですんでしまった。

政府は自衛隊法46条の「隊員としてふさわしくない行為」に当たる可能性があると判断し、懲戒免職を検討したが、田母神は辞職を拒否し懲戒調査にも応じる姿勢を見せなかった。そのため問題の長期化を懸念した政府は、航空幕僚監部付への異動を命じて更迭処分とした。この処分により定年が縮り、11月3日付けで定年退官となった。規定通り支払われる退職金6000万円について、浜田靖一防衛大臣からは自主返納を求められているが田母神は返納を拒否。佐藤正久田母神のこの対応を支持している。

田母神俊雄 - Wikipedia

それでも、この「次の一戦」の出版7年後に水野氏は軍を離れている。

1921年(大正10年)正月、水野は「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)において、第一次世界大戦後のヨーロッパ軍隊の威力を保持するために、軍隊の民主化、軍人の参政権 を主張した論文を発表する。これを受けた世論は、「ついに海軍内にも社会主義にかぶれた 軍人が出現した」と、強い関心を示した。
 水野はこの論文を、上官の許可なく発表していたため、30日間の謹慎処分を受けるこ とになる。そしてついに、水野は同年8月、軍に永遠の別れを告げたのである。

水野広徳ミュージアム

打たれれば打たれただけ反発するのが人の心情であるだけに、相当に反発を強めて活動させてしまったらしい。

水野広徳のその後については、こちらがくわしい。

ここまで来ると出版の時からどのような背景があったのか、その後水野氏がどのような組織とかかわりを持ったのか調べてみたくなる。そして、この動向を調べることは世界経済の景気の悪化とあいまって、現代のこれからを知ることにつながる気がしてならない。