HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

とりあえず書けそうなところから

これは、自分の認識の限界線をどこに設けるかという範囲の問題だ、と。

ある程度「閉じた」コミュニティーであれば、「海辺の生と死 (中公文庫)」が描いた世界がそうであるように、生産も取引も、個人と個人のつながりも、結婚と家庭生活も、基本的にはそのコミュニティーの中で行われる。信頼というものもそのコミュニティーの内で閉じているので、「評判」だの「家」の評価などが、個人のあらゆる面で同じ尺度、同じ評価がついてまわることになる。

しかし、「海辺の生と死」のような静的な世界でも、船に乗った芝居の一座は来るし、新聞も届く。第二次大戦も軍隊の駐留という形でやってくる。「外」と一体的に称される世界があり、自分たちの生活に大きな影響を及ぼしていることも、「外」がなければ「内」もないということも理解できている。

閉じた世界の中では、資本の蓄積もおだやかな形で行われるのだろう。

歴史をひもとけば、江戸、室町時代の無尽講や、昔の意味での株などは、非常に日本流な商人のネットワークから資金を作り出す仕組みであったわけだ。

無尽、講、手形、そして株 Credit Creation: HPO:個人的な意見 ココログ版

これが現代にはいり、世界が一体につながっているにもかかわらず、少なくとも私自身の認識の地平は広がっていないことに、大きな矛盾がある。なにを外部経済として定義し、なにを自分のコミュニティーの中に取り組めばいいのか、非常に定義をあいまいにしながら生活している。

いわばコミュニティーをホップしながら、リアルの生活でも、幾重にも重なった希薄なコミュニティーと帰属感を縦に行ったり来たりしながら、自分の「生活」というファンタジーをつむいでいる。

しかし、SNSの研究が示すように、世界は六次でつながっている。そして、それを可視にすることすら可能な時代になってきている。

ただし、統計熱力学の諸研究が示すように、個々の特異な動きというのは、相互作用をおこすなかで小さなカオスを生み出し、小さなカオスとカオスの間で消しあってしまう。

ああ、時間だいかなきゃ。

ひとつの結論は、多数の参加者から構成される社会ネットワークは時間非可逆であり、決してあともどりできない。かつ、確率的な密度の差があっても未来はエルゴード的、すべての状況をとりうる、可能性が高い。

熱力学モデルで社会ネットワークをとらえうるのだとすれば、全体を相互作用ネットワークととらえるとき参加者個々のパラメーターは限定されうる。熱力学では、個々の粒子の運動ベクトル、摩擦係数というべき相互作用の大きさなどでモデル構成される。しかし、多数体で構成されるモデルをあつかうときは繰り込み理論と同様細かいパラメーター設定によらず全体として一定の振る舞いをする。

社会ネットワークでも同じことがいえるのだとすれば、外形を決める境界と、外部とのやりとりの仕方、そして適用される習慣ともいうべき個々の振る舞いの仕方を定義できればその巨視的振る舞い不安定が安定かといったレベルでは予測できる。

してみると、社会ネットワークの境界の定義と、おおまかな個々の参加者の振る舞いが、とても大事だということになる。社会ネットワークのレベルを会社とすれば、どこまでを会社の内とし外とするか、個々の社員の役割をどうあたえるかにより会社全体の振る舞いは決まる。国レベルの仕事は結局、外交と国防、そして教育と法の制定と法の遵守ということになるだろう。

そして、政府の政策というのはよき結果を列記するのでなく、よき原因を定めることになるだろう。

以上、携帯からの追記でした。後は帰ってから。

また別な視点は、情報の伝播を統計熱力学的にみたときの視点だ。情報はカオス的なさざなみのように伝わるはずだ。細かい情報の振動はその社会ネットワークの構成員のつくるマルチフラクタル的な情報の振幅との比で決まるだろう。

フラクタル:(短い)距離について密度分布がベキ乗に依存すること。

うーん、そうだったんだ!

そして、欲望も平準化される。