HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

座ること


最近、SNSの中の小さなコミュニティーにはまっている。あまり難しい言葉はつかいたくないのだが、人が自然に興味をもったことに集まってきて知りあいになり、仲間になっていくという過程がいくえにもみられるように感じる。

こうしたミニマルミュージックの小さなフレーズが繰り返されひとつの音楽が作られるような過程の中で、座禅について語り始めようとしている。いままで、自分が座っていることについて、あるいはその修行そのものについて、語ることはできるだけ避けようと思っていた。なんとはなしに、師の顔を思い浮かべるとネットで活動すること自体が実は修行のさまたげなのではないかと思っていた。禅について語り合うのは、叢林のお仲間だけでなければいけないと思っていた。

いま、ここでこうして書いていることも含めて自分が生活しているということにはなにも違いはないのだと感じている。リアルで活動することも、ネットで活動することも、自分が生きるということにおいてなにもかわりはない。

一方で、ますます見たまま成すというか、なにも自分の個性をださずにそのままやるということがとても大事なのだと実感しつつある。禅なら禅の言葉をネットの言葉や、現代の言葉に意図的に言いかえる必要などどこにもない。そのまま受け止めるべきだし、語るときにはそのまま語ればいい。それが、語る相手にわかりやすい言葉であるか、わかりにくい言葉であるかは、単に自分の身体と心の状態がまだそこにあるにすぎないということだ。