HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

公的年金に受給権はあるか?

ハーデスさん、とおりすがりさんからいただいたお話というのは、結構一般に流布している我々の常識とは異なる部分があるように思う。やはり、きちんとなにが法律で求められていて、なにができるのかできないのかを明らかにすべきだ。

その前にどうしても気になることをここに書いておく。年金の問題は本質的にはやはり老齢者をどう扶養するかという問題であるということだ。また、なぜそれが公的年金でなければならなかったかといえば、政府以外の金融機関などが十分に信頼できず老齢期を支える長期にわたる仕組みを保持できないであろうという予測があったからだと考える。特に前者の問題は大きいのではないだろうか?江戸時代以前に公的年金があったとは聞かない。それでも、老齢者をささえる社会的な仕組み、なによりも家族制度があった。これらは日本的な道徳心と結びついて、大きな変動がなければ老齢者は一定のレベルの生活ができた。近代の豊かさのパラドックスはここにあると感じる。経済的な発展をなしとげるためには、国を開き、貿易を行い、個人レベルから国レベルまで資本の蓄積を行う必要があると判断されていた。このために自由主義、財産権の拡張が必要だった。しかるに、私は過度であったとは決して思わないが、この自由のために家族制度が解体され、老齢者を家族的、地域社会的に扶養する仕組みは消えてなくなった。

もっとも、医療、栄養の進歩によりかなりの高齢者でも元気に働ける環境も整っているというのも事実であろう。

つまりは、なにをいいたいのかといえば、実は公的年金の問題は実は我々がどのような自由の果実を味わい、その負担を負担するかという問題が端的に噴出しているのだと感じる。老齢者といっしょに生活し、その負担を非常に身近なところで負担するかわりに、国家予算をも凌駕するような規模の財政とがちがちの法律論争が必要になるということなのだと感じる。