個と全体について考えてみたい。もともと個と全体のかかわりというのは人類発祥からの命題であろう。発祥の頃からつめも牙も持たず集団で行動することのみが武器であったに違いない初期の人類にとって、集団で生きることは宿命であった。また、同時にこれは気苦労の多い運命であったろう。お互いの欲望やら利益やらを調整するために、初期の人類集団には、何らかの約束事がなければいけなかった。「掟」、「いいつたえ」、「ジンクス」、そして「神」へと約束ごとは次第に抽象化されてきた。ユングを引くまでもなく人類はその精神史において「個と集団」という命題の解決を図るために、さまざまな装置を生み出してきた。その一つが、集団的に共有される精神性と道徳性であろう。
道徳や宗教は、時にはごく現実的な場面で「個と集団」という問題から人を救い、統治体制に変革を求め、また時には体制がより人々を統治するための道具となった。漢王朝以降の儒教、ローマ教会以後のキリスト教にはこうしたそれぞれ道徳と宗教が統治に使われた好例であろう。これもまた詳細な分析が必要なテーマであるが、本題と離れるのでここでやめる。
個と全体の調整役としての道徳を考えてみたい。一人一人の欲望、欲求をそれぞれが自由勝手に追求するのであれば、全体としての社会は存立し得ない。あるいは、現在の経済至上主義で「一人の命は地球より思い」とする戦後民主主義では豊かさの中にルソーのいうような自然人が勝って気ままに生きている社会なのかもしれない。一人一人の基本的な欲求とは何かを定め、かつ一人一人がそうした欲望、欲求をもっている存在として定義したところが道徳の出発点であろう。欲望、欲求自体は何ら悪いものではない。人が食べなければ飢え死にするであろうし、生殖活動がなければ一代で種としての人類はほろびる。問題は一人一人が限りなく自分の欲求、欲望のみを追及するのであれば、人を殺してでも、盗んでも食物や生殖の相手や財産をぬすんでもよいといことになる。これでは自分を守ることにせいいっぱいでせっかく野獣やら自然環境に打ち勝って人工的な社会、都市という環境をつくったにもかかわらず、野獣なみに生活をすることしかできなくなってしまう。
(そうそう、手塚治虫の「バンパイア」にでてくる間久部録郎の理想社会だ。)その意味で旧約聖書の十戒は本当に最低限のルールをしめしたものであろう。
こうして私には「人類が集団で生きなければならない」かつ「一人一人が欲望、欲求を持つ存在である」という命題から、「人類が社会生活を営むためには一人一人を大切にするための道徳が必要である」という結論をひきだせるように思える。これは、風土や歴史的背景などを問わず、人類が人類であるかぎり真実であろう。
・元型としての道徳
・道徳と超越的存在
・超越的存在と世俗化
世俗化される以前の人類において間違いなく「畏れ深いもの」としての「聖なるもの」の存在が、宗教、倫理、道徳の体系の「重石」として超越性の穴を埋めてきたのだろう。「畏れるもの」を失ったことが人類の近代において最大の科学的、物質的発展の基盤であり、個と集団の問題を複雑にしている「世俗化」であるように感じる。
しかし、私は世俗化したといわれるこの世の中でも残る「都市伝説」や「占い」、「UFO」への人々の態度を見ていると超越性への志向を感じざるを得ないと考える。それは(またまた想いはユングへ還っていくが)、我々の心性の中に深く沈殿した原型であることは確実であるやに思える。
....とここまで書いたときに、小渕首相が「21世紀日本の構想」という懇談会をやってることを「首相官邸」HPで発見した。この中で河合隼雄が「個の創出が公を創る」と語っている。経済戦略会議といい、「あたしゃ小渕首相のまわしものかいな」とい気がするが、一応up-to-dateな話題をここで展開しているんだなと自己納得させる。
99.10.2 ベータアップ To be continued..
99.10.5 「21世紀」追加.
改訂 15/12/31