HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ちぎりおき

結局、光源氏オールマイティーでモテたわけではないんだね。

源氏物語 5 若紫 (YJC-UJ愛蔵版)

源氏物語 5 若紫 (YJC-UJ愛蔵版)

若紫を迎えるまでの涙ぐましい努力は、決して格好のよいものではない。しかし、その誠意というは女性には好ましく映るのではないだろうか?やはり、真面目さ、誠というのは古今を問わず通じるものだ。

気になったのは、「ちぎる」という言葉。たぶん、専門の勉強をされた方だと↓のような解釈になるのだろう。

“「契る」というのは実に曖昧で得てした言葉である” と『源氏物語』研究をされている方が言っておりましたが、この言葉の説明をするには羞恥を捨てねばなりません。もともとは「固く言い交わして約束する」意味ですが、のち、転じて「夫婦の約束をする」(=婚儀に使われる)さらに俗化して「夫婦の交わりをする」となりました。今では「夫婦となる」くらいの意味になっています。今で言う「結婚する」「体を重ねる」が一番適した言葉でしょうか。行為自体ではなく、そこに意味と特別性を持たせます。広辞苑で「契りを籠む」という言い方がされています。これは、深い約束をする・夫婦の交わりをする意です。古典において「契る」という言葉が意味するものは「1 固く言い交わす。2 夫婦の約束をする。3 夫婦の交わり。」という理解で良いと思います。

『源氏物語』講座(其之弐)

江川達也さんはたとえば「ちぎりことになむこころながらおもひしられける」を「そう思うのも前世からの強い縁があったと、私の心が私に訴えかけ思い知らされたのですよ」と現代語訳している。意訳なのだろうが、この「前世からの縁」という言葉に強くこころうごかされるものを感じてしまう。

昔々、人から聞いた言葉。でも、真実なのだと改めて思う。

男と女のやりとりは結局命のやりとりなのだ - HPO:機密日誌

モテ、非モテって政治的な問題になってるの?

なんかねぇ、なんかなんかだよねぇ。

その二面性が「女」ってやつなのかなぁ、と。

花咲く国、平和成るかな: muse-A-muse 2nd

結局、農耕社会が戦争を生んだのかもしれないというのは、かなり説得力がある話。

対して狩猟採集民は、民族の性質として平等で誰か一人が

絶対的な権力を持たない。なぜなら(収穫量が不安定かつ、肉は保存が難しく)

食料の貯蓄が難しく、富の集中が起こらないからだ

はてなダイアリー

笠井潔が読んだら泣いて喜ぶだろうな。

笠井潔 - wikipedia

「ヴァンパイアー・ウォーズ」の前提としている仮定って確か農耕がすべてをダメにした、と。再度狩猟社会に戻り、すべての富の蓄積をやめるべきだ、と。

こんなに続いているとは知らなかった。

でも、ちょっと絵がねぇ。

そうそう、やっぱり生頼範義さんのが雰囲気に合っているように思う。

いや、そうじゃなくて、モテ、非モテの話。

それとは別に母権社会が乱婚を機軸としつつ平和な状態だったということから、「やっぱ性的なこと考えてるだけの社会ってのは平和なのかなぁ。セックスすると男のタテ思考がアホ状態になるのかな? 平安とかもそんな感じだったみたいだし...文化っつーのは戦争と戦争の中間に栄えるっていうし...そうすると性は文化?」、とか暴論思っちゃうわけですが、まぁ、当たらずとも遠からじかなぁ、と。

花咲く国、平和成るかな: muse-A-muse 2nd

ここがよくわからない。

母系社会というのは本当に平和だったのか?源氏物語とか読んでいると設定上最高の男性であるはずの「君」が実によく泣く。現代的にいえば繊細というか、感動屋さんのお坊ちゃんタイプということになるのだろう。

しかし、性的な格差社会的な要素が充満してくるとどうも社会が不安定になり、戦争だの、内乱だのにつながる歴史が過去にあったような気がする。鈴木謙介さんがうれいていらっしゃるのもその辺ではないのか、と。

と、書いて「SOUl for SALE」が完全に消えていることに気づいた。ちょっとショックだな。

伊藤公雄の本がとどいて読み始める。なんつうか現在ウェブで議論されている男性性、女性性、所得の男女間問題、自殺比率の差など十数年以上前から指摘されてきたことなのだね。

源氏物語 5 若紫 (YJC-UJ愛蔵版)

源氏物語 5 若紫 (YJC-UJ愛蔵版)

はては「バックラッシュ」とかまで議論されていてなにも目新しくないじゃんという何回目かの失望を味わっている。

しかし、ケイト・ミレットと「女性少女愛」との関係にしろフェミニズムを訴える方達ってなぜ性的マイノリティの問題とのつながりが深いのだろうか?性という限り無く個人的問題を政治問題化せずにいられない執念みたいなものを感じるのは私だけだろうか?人から差別されようが、認められまいが、性の問題とはそのまま自分自身がどのように自分の人生と向かい合うかという問題であろう。

もしかして非モテの問題って自分が男性性を十分に発揮できているかどうかという自己への認識、自身のなさの問題なのではないだろうか?