HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

そいつは違うぜと言いたい

私も長い間そう思っていたが、それは違うのだとずいぶん前に気付いた。

真面目なやつはモテない。全く相手にされない。「真面目」なことは魅力にならない。男に対して「良い人」「真面目」「優しい」という評価は、全て「馬鹿」と言う意味を隠すための隠語だ。

http://anond.hatelabo.jp/20070708031802

女性は案外男のまじめさを評価している。それは、なんというか女性のやさしさであり、そして女性なりのエロティシズムなのだと思う。確かに男は紋切型でしか女を選ばないことが多いが、自分の紋切型をそのまま女性もそうなのだと考えるととても自分を不幸にする。昔からいうぢゃないかい、「亭主の好きな赤烏帽子」って?

自分のおろかしい半生をここで書くことはしないが、おかげで私はいま普通にくらしている。そして、その普通の暮らしをとても幸せだと感じているよ。

自分自身の人生をもちょっと広い目で見てみると世界は変わってくるのじゃないかね?

ま、おじさんがこんなことを書いても反発しか残らんのだろうけどね。でも、書いちゃうんだよな。

なんつうか、最近痛感するのは、自分の人生であるにも関わらずあまりにも自分の経験とか信念とかからではなく、マスコミやら、ごく表層で喧伝されるうわさやらに、自分の究極の価値を預けている人が多いといことだ。この前もある同級生とそれで喧嘩した。いい年のおじさんが高円寺の喫茶店で喧嘩だぜ。しゃれにならないのだが、あまりに頭にきた。この辺とか読んどけと言いたい。

エッチなんてさ、男女の関係なんてさ、1000年前から変わらないんだぜ。

源氏物語 1 桐壺 (SCオールマン愛蔵版)

源氏物語 1 桐壺 (SCオールマン愛蔵版)

有性生殖を獲得してから、エロスなんて変わらない。多様性があるから我々の先祖は生き残ってきたんだぜ。最近の「高度資本主義」、「マスコミ至上主義」に恋愛まで、自分のエロスまで毒されてほしくない。

って、こんなおじさんが若者に力説してもホントなんにもならんと自分自身でわかっちゃいるのだがね。言いたくてたまらんのだよ、おじさんという種族はね、もう自分に残っている時間の方が生き生きと生きてきた時間より短いと知っているから。

■追記

あ、あとね、女性は男の弱さをいとおしく感じるらしい。女性の前で素直に自分の弱さをさらしたことないだろ?

それからね、真面目さも一般的な真面目さじゃなくて彼女の「ための」真面目さだからね。

弱者男性って?

コメントいただいて読みに行ったら、思わず印刷したら一冊の本じゃないかってくらいの分量の記事だった。つっこみどころはいろいろあれど、さすがチャーリー=鈴木謙介さんだと思った。

弱者男性とは、

A.「正社員として働くのがまっとうな姿」という世間/周囲/自分の期待に応えることのできない状況にいる人びと(具体的にはフリーターなど)、

B.自らの望まざる状況(たとえばAのような状態)にいることを、自分以外の誰かに帰責して溜飲を下げる、あるいは暴走する人びと(いわゆる「ヘタレ」?)、

C.女性を含めた他者に対するアクション−リアクションをスムーズに行うことができない(と周囲から思われていたり、自分で思いこんでいたりする)人びと(≒コミュニケーション弱者)

のいずれかあるいは複合的な状態にある人のことを指しているように思われます。

macska dot org » 鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問

*1

政権が安定するためには、自意識過剰なため過激な政治主張にはしりやすい「弱者男性」を気にかけておく必要があるということを鈴木謙介さんは主張されている。「男性学」という言葉が適切かどうかはあるにしても、女性とのバランスにおいて男性側が不公平さを感じる状況にある現在の日本というのは、あやうい。

「弱男性」という問題から離れれば、世代の差を初めて感じた。

↑のブログの方も、鈴木謙介さんも、コメント欄で活発に議論された赤木さんも、ほぼ1975年前後生まれだ。彼らには、地域性、あるいは「田舎に帰る」意識が皆無なのだ。私の世代ではまだ「田舎」、「実家」は大きな問題であった。周りで「いざとなったら田舎へ帰るさ」とか、「実家から帰って来いとしつこく言われている」というような悩みが聞かれていた。言葉が言葉以上のしがらみを含んでいた。

さてさて、鈴木健介さんの世代が生まれた1975年に川又千秋は「夢の言葉・言葉の夢」をSFマガジン誌に連載していた。川又は、「死の棘」の島尾敏雄を読み解いた上で、「70年代の水平器」という言葉でこれから生まれ来る子ども達の世界観を予感していた。彼の予想はすっかり現実になった。

ちなみに、この本のタイトルでぐぐったら、野阿梓のサイトが出てきた。

たとえば、かつて、少女漫画の文脈について語ることは、恐らくは悪い冗談の一種と受けとられていたに違いない……。

川又千秋がこういったのは七五年初頭のことである(「夢の言葉・言葉の夢」)。

(中略)

萩尾望都
たとえばマンガをかく場合に、わたしは嫌いな人とかタイプってのを、かくのがものすごくいやなわけです。汚いもの、汚くないものとか、ずいぶんたくさん、世の中にはいろいろあるわけなんですね。ところが文章のほうは、まあ、日記に書くなり単に活字にするなりでしたら、なんでも書けるわけ。でも、マンガでは絶対かけないわけ、手が拒絶反応しちゃう。
吉本隆明
……つまり、もともと少女マンガっていうのはこういう世界はかいちゃいけないんだみたいなものがあって、かかないわけじゃないでしょう。
萩尾
いや違います。
吉本
それじゃ逃避じゃないと、ぼくには思えますが、どうでしょうか。……それがどんな不健康な世界であろうとなんであろうと、ぼくは逃避じゃないと思います。

2 ou 3 choses que je sais de la SHOJO-MANGA

別に1975年以前は言葉と生活がしっかり接続していたと主張はしない。そう、源氏物語だって1000年前の少女漫画だ。言葉は生活から遊離している。

「田舎、地域社会、血縁」などから「中央、グローバリズム、希薄化する絆」への移行は今に始まったことではない。コスモポリタンは、古代ローマの末期にもいっぱいいた。

だが、それにしても、「弱者男性」という言葉自体から、あるいは「非モテ」、「非コミュ」の議論自体から、少女漫画的な情熱があふれ出ている。生活から遊離した言葉が、言葉だけで完結している世界だ。

これを書いていて、私は十分に古い世代に属する証拠なのだと、改めて発見した。

*1:読みやすくするために改行しています。HPO=ひでき