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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

人間が時間を発明した

「日本がアメリカを赦す日」の補論「個人の分析と集団の分析」を読んで岸田秀の「幻想論」が初めて理解でした。

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

人間は、本能が壊れた動物である。念のため断っておくが、本能は「壊れた」のであって、「なくなった」のではない。壊れて断片化した本能、本能の数多くの断片は存在市続けているが、本能の断片では一貫した適応行動の指針にはならないのである。

魚が水に泳ぎ、鳥が空を飛ぶのは、本能であって、魚と水、鳥と空は見事にお互いを支え、泳ぐ姿、飛ぶ姿にはどこまでが水、空で、どこまでが魚、鳥であるかの区別はない。本能が環境とに区別はない。図と地でひとつの絵になるように、一体と呼ぶことすらはばかれる程だ。

人間の本能は「壊れて」いるので、環境と人間は常にミスマッチの関係にある。だからこそ、環境を積極的に人間は改変できるのだろうが、そのミスマッチを「幻想」として埋めなければ人間は生きていけない。幻想は心理学では「自我」と呼ばれる。

幻想である自我は、本能と違って、現実(個体の生物的機能、自然環境など)に根拠がない。現実に根拠がないゆえに、自我は多くのさまざまな幻想装置で支えなければならない。わたしは、時間が人類の発明であることを以前から主張しているが、時間の発明と自我の発明とは同じ原因から発しており、時間は自我の支えの一つである。言わば、時間は自我の棲み家である。自我は時間という棲み家をもつことによって世界の中に、そして歴史の中に位置づけられた。自我そのものというものはない、言い換えれば、自我は実体ではないのだから、この位置づけが自我なのである。時間の中に棲む自我には、始まり、起源がなければならない。そこで、父親と母親が発明された。そして、父親と母親にもさらにその親がいるわけで、そのようにして自我は集団と繋がり、過去と繋がる。自我の棲み家が時間であるということは、自我が過去に発し、現在を経て、未来へとつづく物語をもつということである。

かくして、個人の自我と集団の物語は時間を通して必ず繋がっていなければならないことになる。本書を通じて、日本と米国の建国神話まで遡ってそれぞれの集団の正統性、精神疾患的な行動をあきらかにしたのは、人間が「時間」、歴史を必ず持たなければならないからだということになる。人が自我を、つまりは幻想を通してでも生きていくためには「時間」が必須である、「時間」は共有されなければならない。

このふりはらえない幻想が幻想であることを自覚して、透徹して生きることが人としての課題なのだと自分にささやいておく。