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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

成田山中興の歴史

自分の中で年代がきちんとしていなかった。公式な流れは成田山のサイトにある。

成田山

大本山 成田山

歌舞伎の市川家との縁は、二代目さんの生誕から始まると言われる。

二代目 市川團十郎元禄元年10月11日(1688年11月3日) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は、正徳から享保年間にかけて江戸で活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋定紋は三升(みます)。俳名は三升、才牛斎、栢莚、雛助。


(中略)


江戸っ子の絶大な人気を博して、現在にいたる市川團十郎家の基礎を築いた人物である。
父は初代 市川團十郎、母は初代 市川翠扇。初代團十郎成田山新勝寺(成田不動)に子宝の願をかけたところ見事生れた子だったので「不動の申し子」といわれた。


(以下略)

市川團十郎 (2代目) - Wikipedia

二代目さんが生まれた1688年当時は、まだ現在の薬師堂が本堂であった。歴史を感じる建物であるとはいえ、普通クラスの建物である。ところが、「1700年 照範上人、成田山中興第一世貫首となる」あたりから、急速に建物が大きくなる。翌年の光明堂はかなりの伽藍だ。そのま2年後には深川での出開帳が行われ、成田山が江戸時代の一大信仰地へと成長していく。ここから先は、「観光都市 江戸の誕生」に詳しい。

観光都市 江戸の誕生(新潮新書)

観光都市 江戸の誕生(新潮新書)

二代目さんが生まれてから、出開帳まで15年あまり。ここがターニングポイントではなかったろうか。照範上人が「中興第一世貫首」になったということは、逆に言えばそれまでは誰が住職を務めていたのだろうか?伝説では、照範上人は水戸光圀公の落としだねで、水戸藩の絶大な支援があって成田山の基礎が作られたともいう。ここが歴史のミステリーだ。

しかも、この直後に初代は亡くなっている。

元禄17年2月19日(1704年3月24日)、市村座で『わたまし十二段』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年45。一説には、生島の息子が団十郎から虐待を受けており生島は団十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である。

市川團十郎 (初代) - Wikipedia