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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

人の抱える闇

若い頃、村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」を読んだ。登場人物の一人が「もっと経費を使えと会計士がいってるんだ」と語っていた。そう言われるような身分になりたいものだと想った。ずいぶん時間がかかったし、それなりにリスクは背負っているのだが、一応それらしき所に立っていはる。しかし、それは思っていたものとはずいぶん違う。それぞれの人間にはそれぞれの事情がある。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

「ダンス、ダンス、ダンス」の誰だったかは会計士を使える見方によっては恵まれた立場にいた。それでも、闇を抱えていた。人がなにを喜びとし、どこに闇をもっているかというのは、周りから伺いしれない。その人の喜びと、その人の闇は表裏一体であるからだ。例えば、私も「頭がいい」と言われて育ってきた。それが喜びであった。まあ、ばかにつける薬はないとあきれられるなさけないうぬぼれだ。そこには、「(生得なのだから)努力などしなくともいい」という呪詛が含まれていたことにこの年になって初めて気づいた。そこに私の闇がある。

うまれつきの才能などというものはない。人は我を忘れるほどひとつのことに打ち込んだ時に、はじめて我を忘れられる。そこには生得の才能などというものは必要ない。自己を忘れる境地とは、喜びも、闇も、自分のなさけなさも、なにもかもがひとつであり、なんのさまたげにもならないのだということを自覚することではないだろうか?

学生時代、ある友達がいた。その友達は快活で、賢くて、なにをやらせても成果をあげていた。それでも、自分には闇があるといっていた。社会人になってもきちんと成果をあげつづけてた。それでも、友達が言うにはまだ闇はそこにあるのだと。

そこがわからない。

人から見えない闇を、どういやしてあげたらいいのか。外から触れられない闇をどうわかってあげたらいいのか。その友達は「そんなお節介はいらない」というだろう。「お前には私のこの闇、この痛み、この労苦はわからない。ましてやいやすことなどできない」と拒絶するだろう。

何不自由のない万全の幸せなどない。

いまここにある時間と空間をどう生きるかだけだ。