若い頃、村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」を読んだ。登場人物の一人が「もっと経費を使えと会計士がいってるんだ」と「僕」に青山のレストランの支払いをした。会計士にそんなことを言われるような身分になりたいものだと想った。ずいぶん時間がかかったし、それなりにリスクは背負っているのだが、一応それらしき所に立っていはる。しかし、それは思っていたものとはずいぶん違う。それぞれの人間にはそれぞれの事情がある。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/15
- メディア: 文庫
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「ダンス、ダンス、ダンス」の誰だったかは会計士を使える見方によっては恵まれた立場にいた。それでも、闇を抱えていた。人がなにを喜びとし、どこに闇をもっているかというのは、周りからうかがいしれない。その人の喜びと、その人の闇は表裏一体であるからだ。他人から見ればうらやまれるような特性にこそ、その人の闇が隠れていることが多い。
例えば(というほどの話ではないが)、私も「頭がいい」と言われて育ってきた。それが一種の喜びであった。いまにして想えば、ばかにつける薬はないとあきれれるほどなさけないうぬぼれであった。人にそう言われる度に、自分の中に「(自分の生得なのだから)努力などしなくともいい」という呪詛が生まれていたことに、この年になって初めて気づいた。初撃だけで、忍耐力、努力する才能が私には欠落している。そこに私の闇がある。
うまれつきの才能などというものはない。人は我を忘れるほどひとつのことに打ち込んだ時に、はじめて我を忘れられる。そこには生得の才能などというものは必要ない。自己を忘れる境地とは、喜びも、闇も、自分のなさけなさも、なにもかもがひとつであり、なんのさまたげにもならないのだ。そのことを、自覚することこそが、我を忘れるではないか?
学生時代、ある友達がいた。その友達は快活で、賢くて、なにをやらせても成果をあげていた。それでも、自分には闇があるといっていた。社会人になってもきちんと成果をあげつづけてた。それでも、その友達が言うにはまだ闇はそこにあるのだと。
友達の「そこ」がいまだにわからない。
人から見えない闇を、どう癒やしてあげたらいいのか。外から触れられない闇をどう分かってあげたらいいのか。その友達は「そんなお節介はいらない」というだろう。「お前には私のこの闇、この痛み、この労苦はわからない。ましてや癒やすことなどできない」と拒絶するだろう。
何不自由のない万全の幸せなどない。
いまここにある時間と空間を我を忘れてどう生きるかだけだ。