HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「笑い話に時が変えるよ」

車を運転しながら、iPodで「秋桜」を聞いた。涙があふれ出て止まらなくなった。

小さいころから何度も何度も聞いた曲だ。ああ、年老いて、親というものは涙もろくなり、同じ話を繰り返し、繰り返しするようになるもなのだ、この曲は年をとった両親から嫁ぐ娘の話しなのだと想っていた。娘が嫁ぐ年には、親の物忘れも始まるものかと想像していた。

いつのまにか自分の娘が、嫁いでもおかしくない年頃になった。親の身になってしんみりこの曲が聴ける。涙もろくなったのでもなく、年でぼけたのでもなく、娘が嫁いでいくという事実の前に、親は深い深い喪失感を味うのだと想う。なすすべもない状態では、同じ思い出話しを繰り返すこと、そして、数少ない娘との写真を見て、涙するしかないのだと・・・。

こころにささったのは、この部分の歌詞。

こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの優しさが しみてくる
明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に時が変えるよ
心配いらないと笑った

嫁いでもきっと苦労を重ねるに違いないと分かっている。それでも親は嫁がせるしかない。そんな状態の切なさが読み込まれている。時代錯誤と言われないかもしれないが、娘の幸せを願う親の想いに打たれた。親には、自分がどれだけ苦労してきたかを言葉でなく語るしかないのだ。自分の思いしか、娘には嫁入り道具として持たせてやれないのではないだろうか?

ま、とかいいつつ、10年後にもひとりも娘が嫁いでいなかったら、このエントリーを見て、今度は苦笑することだろう。