HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

道具と習熟

最近、思うのだが、本当に道具とはいかに習熟するかが大事であり、次から次へと新しい道具へ走るあまり、いつまでたっても習熟があがっていかない状況というのは、生産性が実にあがらないということだ。多分、WindowsLinuxといった基幹のソフトウェア技術ももうこれ以上ないというところまであがりつつあるいま、変化しないことによって世の生産性があがり、無駄なことに時間とお金と資源を使わない社会的なインフラができるということになるのだろう。

例えば、HTMLひとつとっても、随分長いこと変わっていなし(はず)。プログラミング言語もいろいろいわれながらも、細かい差異は別にしてもう10年以上技術的には枯れてきているのではないだろうか?

人の土俵だとすもうはとれないのだが、自分の領域の話をする気にもなれない。でも、自分の領域だともっとこのことが顕著だ。

変化し続けられる人、変化はできないけど習熟は出来る人、習熟する根気もないひとで実は格差が生まれてくるのかもしれない。漠然と思う。