HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

女が男を選ぶとき Up side down, you've turned me!

一応、先日の記事は、前半ということで、今回は後半の「適応地形」にチャレンジしたい。

それにしてものけぞったのは、先日niryuuさん(どこにリンクはりましょう?)に教えていただいた「ディアスポラ」の冒頭のシーンが、この適応図形と先日の「私」の起源の話とかぶっている。いや、私のような蓋然性のひくいレベルでなくて確実な筆致でイーガンは書いている。すばらしい!

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

まだ最初の1、2章を読んだに過ぎないのだが、きっとこのSFは線形と非線形ということが鍵になって展開していくに違いないと確信している。まさにこのSFは本ブログのためにあるといえる。あ、いや、逆かな。あはは。

脱線ついでに、カウフマンの文体が好き!ということに触れておきたい。「自己組織化と進化の論理」の原題は、"At home in the universe"だ。直訳すれば、「秩序ある宇宙の中にある家にて」という意味だ。なんというか、某所に書いたので繰り返しはしないが、先日この冒頭のシーンではないが、なんと我々は非線形な数学や記述によって語られるべき自然と秩序の中で生きているのかと実感することがあった。不遜なことだが、カウフマンはこのとき私が感じたような実感をもって、このタイトルをつけたに違いないと想う。そう、非線形な論理が横行する暴力的ともいえる秩序の中に我々はたゆたっているのにすぎないのだ。

当然、翻訳がよいからなのだろうが、本書にちりばめられた詩的な言葉が好きだ、とても好きだ。また、医学、化学にまたがる膨大な知識と洞察を深い言葉で語りながら、ふと「銀河ヒッチハイカーズ・ガイド」が示す宇宙の最終真理が出てきたりする。

ま、前置きはともかく前回と今回の記事のタイトルの理由から書かなければならない。なぜ男と女が生じたのかという話しだ。結論から言えば、適応し、進化するためには無性の単細胞でいるよりもはるかに有利だからだということになる。

進化を扱う生物学では、適応地形ということがよくいわれるらしい。これは、目が青いか、ブラウンか、背が高いか低いかといったn対の遺伝形質があったときに、水辺や森の中といった特定のある環境の中で、どの遺伝形質の組み合わせが適応度が高いかを図形的にあらわしたものだ。

メンデルの法則が示すように遺伝というのは、デジタルに伝わる。メンデルに敬意を払ってエンドウ豆を例にとれば、さやが黒いか黒くないかが遺伝子のひとつの単位となる。そして、黒いか黒くないかは1か0で表すことができるわけだ。このほかにはも、小さい、大きい、しわがある、しわがない、などさまざまな対の遺伝形質が存在する。これらをまとめて、遺伝形質の違いをは、「10100011...」といった数列で表すことができる。一つ一つの遺伝因子は独立で働くとはいえ、この数列が「黒くて、大きくて、しわのないエンドウ豆」といったひとつの個体としての表現が対応する。これを大きな視点から見れば、ひとつひとつの遺伝形質の表現に応じた個体の環境の中の適応度が想定される。「黒くて、大きくて、しわのない」ことが「白くて、小さくて、しわがある」ことよりも、太陽光線を吸収しやすく、乾燥に強いかもしれない。これは、前者の方が適応度が高いということになる。そして、ここからがカウフマンの偉いところなのだが、この遺伝因子をコンピューターモデル化し、各遺伝形質の2のn乗個の組の遺伝形質の表現を平面にあらわし、それぞれの適応度をその地点における高さとして表した。当然本来n次元における立体となるわけだが、想定上はこれを高度を持つ平面としてとらえることができる。この平原を適応地形と呼んだ。

詳細は省くが、進化が綿々と続いてきたことから逆算すれば、古代から現代にかけて全体として適応度はあがってきていることになる。この状態を例えば言えば、あるでこぼこした山の斜面を登ってきていることにたとえられる。でこぼこがあるので、ところどころ局所的な丘や尾根があったとしても、進化が続いてきたことを考えれば、全体として一定の勾配をもっているような適応度地形でなければならないことになる。そして、数学的にもこれを証明している...らしい。

これは素晴らしいことだ。多少の疑問はあるものの、私がいまこうして文章を書き、ブログに載せると言う行為をできることが、生命の発生から続く適応度の頂点にあるのだとすれば、あまりに自明なことなのだ。最初に発生したなんらかの生命体から、局所的に適応度が周囲よりも高い丘にとどまることなく、斜面を上に上に登りつづけてくれた私の先祖たちにより私はいまここにいることができる。カウフマンは、NKモデルといわれるごく簡単なモデルを使うことにより、私がいまここに存在しているということは、地球の環境というものは、常に上に登ることのできる勾配をもつ適応度地形を生命に提供してくれているということなのだ。

適応度地形がランダムでないということか。それにしても、NのノードがそれぞれKのリンクを持つというモデルで説明できすぎだ。ことここにいたりNKモデルのKがべき則にしたがった場合という問題の重要性を理解する。

そして、カウフマンは同じモデルを使って、単細胞生物が自分の遺伝形質における少しづつの変異だけでは、斜面の「丘」にとどまってしまい適応度をあげつづけることが非常に難しくなることも示した。さきほどの「10100011...」という数列で遺伝形質を
表すのだとすれば、この中のひとつやふたつの数字(遺伝形質)が変わるだけでは丘を降りて、より大きな丘、より高い高地を目指すことができない。大きなジャンプがどうしても必要なのだ。一方、大きな遺伝形質的ジャンプに必要なほど突然変異がはげしければ、必要な形質を維持できないことも、数学とシミュレーションによって示している。

ここからやっと男と女の話しになる。男が女を見て選ぶことができる、女が男を見て選ぶことができるということは、この問題を解決する。これはちと冗談なのだが、カンブリア紀の生物種の多様化の爆発では、目が身体から飛び出ていて自分を見ることができるものが多く存在したのだが、自分の容姿の現実を素直に見ることができる謙虚な種はすべて絶滅してしまった。以来、自分の姿を省みず、自分の利益を追求する強欲な種だけが生き残り、現在の私達人類にまで到達する。いや、ここまでは冗談なのだが、自分を見ることはできないくせに、異性だけは見ることができ、交配することができる。突然変異に頼らなくとも、自分の目から見て適応度が高い相手であれば、自分も適応しているわけだから、相手と自分の遺伝形質のどちらかが残るのであれば、そうはずれはない。しかも、どちらの遺伝形質が残るのかは、突然変異ではない形でまったくのランダムとなるので、いまの自分とはかなり違う固体を残すことができる。つまり、安全な大ジャンプを各代にわたって安全に実現することができるのだ。

「細菌のように永遠に分裂を続ける不死の運命を、放棄しなければならないからである。」

しばらく前から、固体の死というのは、生物にとって最大の「進化」だったのではないかと考えていた。うう、カウフマンに先を越されていたのか。

そう、そしてこれが今日の結論。だから、女は男を選ぶのだ。あるいは、男は女を選ぶのだ。自分の個体の死を明らめてでも。