最近、あるプロジェクトを傍観させていただく貴重な機会があった。そのメンバーの方々がどれくらいすばらしい活躍をされていかに短期間で結果を出したかということなどは、諸々の事情でここで書くことはできないが、非常に刺激的な体験をさせていただいた。
私なりにこのプロジェクトを概観すると、結局全く0の荒野から新しい体制を自分で作るということは非常に難しく、今までいた世界のアナロジーであたらしい世界を見せてあげると、非常に人も多く集まるし、安心してはまってくれるのだということだ。0から構築できる人も確かにいる。しかし、ものすごく少数なのだ。荒野を切り開いた人は、確かにそれなりの報酬を得るように見える。しかし、大多数はほんの一歩二歩歩き出してそこでとまってしまう。逆に、普通に人が社会で生活するようなアナロジーを与えてあげると非常に多くの人が道を歩き始める。形成されるのは、荒野を切り開いたときほど広い道ではないにせよ、多くの小道ができる。そして、このプロジェクトでは、後者が構造的にも社会のアナロジーとして捉えうるかを見事に示していたように、私は感じた。マーケティング的に言えば、道具立て、そこで使われるテクノロジーは一緒でも、その見せ方、そのアナロジーの与え方が決定的なのだと知った。森さんのおっしゃるように人はやはり見たいものしか見ないのだろう。
・「信じたい心」を増幅するネットワーク by 森祐治さん
もうちょっと言ってしまえば、テクノロジーが進んでも、人はそのテクノロジーを以前から持っている自分の枠組みでしか理解しないということは、なかなか人は自分で自発的には変わろうとしないということなのかもしれない。全く新しい環境に押し出されたときでも、人は見たいものしか見ないものなのだろう。
人はかなり早い時期に「見たいもの」の枠組みを作ってしまうように私には思える。一定の年齢を過ぎると人とによっては一生そのものの見方を変える必要すら感じなくなってしまう。
・人は見たいものを見る by 山口浩さん
なんというか、結論めいたことを書いてしまえば、テクノロジーの進歩そのものが人の行動を変えるというわけではなく、人と人のつながり方が変わるときに真にテクノロジーが社会に受け入れられるということなのではないだろうか?
ちょっと唐突だが、「新しい自然学」の中で、レンガつくりを例に出して「創発」概念を説明している。レンガの材料、製造技術、レンガ積み、建築家のそれぞれのレベルで、ひとつ下のレベルの特性にその上位のレベルは依存しているが、下のレベルから上位のレベルを導出することはできないということだ。
現実界は一般に階層構造をなしていて、上位のレベルにいくごとに下位のレベルの法則によっては表現できない組織原理が現れる。これを創発という。
ニュータイプとか、そんな大げさなことを言うつもりもないのだが、社会というネットワークの形はノードである人の形に依拠しているということだ。そして、現代という常に新しいテクノロジーが生み出されている社会において、これまで学習してきたことを白紙にすることがとても大事なのだろうが、人はなかなかそうはいかないのだ、ということを今回のプロジェクトで実感した。この意味でも、生き物に寿命があって、生成したものは必ず消滅し、次の世代が活発化するという構造が理解できるように思う。