実は、ホンネをいってしまえばネットワーク関係を触りだしたときから、この複雑ネットワーク(という言葉も当時は知らなかったが)の相互作用の塊から、きっと信頼性が必要で、信頼性を産むためには、一定の倫理的態度が必要だという結論を期待していた。自己組織化といっても、いかに自分がリンクしている相手に一定の反応を期待できるか、期待の集合体としての信頼を形成できるか、ということの結果に過ぎないと思っていた。
最近、しかしこの自分自身「読み」があまかったなと感じている。
自己組織化の結果としての倫理がありうるとしたら、自分自身がその「期待」を実現するものでなければならないと信じてきた。しかし、自分はあまりに思いあがっていたようだ。自分の利害から、人を傷つけ、人を裏切り、怒りをあらわにするという罪をブログ界隈でも自分は犯してしまった。
と、書きながらまだこの「罪」が自分の中で納得しきれていない自分がいる。なんという傲慢だと自分の理性がささやくのだが、自分で自分を受容しきれていない。
トンデモだといわれるのだろうが、自己言及というか、合わせ鏡のような無限につづく自己像こそが自我だと長いこと信じてきた。「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のホフスタッターが私がまだ大学生だったころの、そう多分大学1年生の85年の4月くらいだろう、「現代思想」にのった論文がいまこの複雑ネットワークにまでつながる私の関心のひとつの核になっている。
「ネバーエンディングストーリー」のエンデが書いた「鏡の中の鏡」も意味ありげだった。いま、エンデの文章を読んでもあまり感じるところが少ないのだが、当時は本当に衝撃的だった。これは、罪を自己に問い、自己にまた罪を問う、無限の合わせ鏡の世界だったように思う。罪に苦しみ、苦しむ自分にまた苦しみ、苦しみの中で罪を犯す、そんな悪夢のような世界だった。
いま、生き物や、化学現象や、社会的なネットワークなどから立ち表れる自己組織化を学ばせていただいた後、はてしてこの自己言及、自己認識の合わせ鏡が本当に自我、主体の成立に必要な現象かどうか、確信はない。ただ、複雑な相互作用というのは確実にあるのだろう。
やはり、このブログ界隈という世界に来ても、果てしなく繰り返し聞かれる問いは同じなのだろう。
「我々はどこからきて、我々は誰で、我々はどこへ行こうとしているのか?」