HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「海賊とよばれた男」下巻 読了

実に昭和のにおいのする小説だった。諸事情あって下巻から読み始めた。

hpo.hatenablog.com

この辺の歴史が見事に物語りとして描かれている。コピペばかりで恐縮だが、自分のためのメモとして残しておく。「出光」とは出さないまでも、まったく忠実に小説家したことがいまわかる。

1938年(昭和13年)12月 - タンカー日章丸一世(1万4千重量トン)就航(1944年(昭和19年)2月戦没)。
1940年(昭和15年)3月30日 - 出光商会が出光興産株式会社を設立、「事業を通じて人間を育てる」という企業理念から。
1947年(昭和22年)
     8月 - 石油配給公団の販売店に全国29店が指定され石油業に復帰。
     11月 - 出光商会を合併。
1949年(昭和24年)4月1日 - 石油元売業者に指定。
1953年(昭和28年)5月9日 - 日章丸事件が発生[注釈 1]。
1957年(昭和32年)3月17日 - 徳山製油所が操業開始。海軍工廠#その他の海軍軍需工場旧海軍燃料廠跡地で、10か月の工期で完成。
1961年(昭和36年)5月1日 - 中部電力三菱商事などと共同で、東邦石油株式会社を設立。
1962年(昭和37年)10月7日 - 当時世界最大の13万9千重量トンタンカー「日章丸三世」を建造。
1963年(昭和38年)
     1月31日 - 千葉製油所が操業開始。
     11月12日 - 生産調整に反対し、石油連盟を脱退(1966年(昭和41年)10月1日復帰)。
1964年(昭和39年)
     9月 - 石油化学部門を分離し、出光石油化学を設立。
     10月 - 出光石油化学徳山工場が竣工。
1966年(昭和41年)12月 - 世界初の20万トン級VLCC(超大型タンカー)「出光丸」(20万9千重量トン)を就航。建造を担当したのは石川島播磨重工業(現・IHI)[注釈 2]。

出光興産 - Wikipedia

大英帝国の影響下にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本の元にあり、イラン国庫にも、国民にも利潤が充分に回らない状況にあった。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執行するイギリスにイランは態度を硬化させた。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。


一方日本は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカなどの連合国による占領を受け、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自のルートで石油を自由に輸入することが困難であり、それが経済発展の足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産社長の出光佐三は、イランに対する経済制裁国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を派遣することを決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉者として専務の出光計助を1952年に極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。

日章丸事件 - Wikipedia

1945年(昭和20年)8月 出光佐三は、終戦の2日後、従業員に対し、「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。当時、多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。
1946年(昭和21年)国際石油カルテル独占を規制することを建言。
1947年(昭和22年)公職追放令該当のため貴族院議員資格が消滅(3月12日)[1]。出光、石油配給公団の販売店指定を受ける(10月)。出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発(11月)。
1949年(昭和24年)出光興産、元売業者の指定を受ける(10月)。
1950年(昭和25年)出光興産、石油製品の輸入を主張。
1951年(昭和26年)出光興産、日章丸二世を建造。「消費者本位の石油政策」を発表(9月)。
1952年(昭和27年)出光興産、高オクタン価ガソリンを輸入。
1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。英国アングロラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。
1957年(昭和32年)出光興産の徳山製油所、竣工(3月)。
1960年(昭和35年)出光興産、ソ連石油を輸入(4月)。
1962年(昭和37年) 生産調整に反対し、出光興産、石油業法に反対。石油連盟脱退を決める(1966年(昭和41年)、生産調整が廃止されたことを受けて復帰)。
1963年(昭和38年)出光興産の千葉製油所、竣工(1月)。出光興産、石油化学工業へ進出(4月)。出光興産、石油連盟から一時脱退(11月)。
1966年(昭和41年) 出光興産の社長を退き、会長に就任。
1972年(昭和47年) 出光興産の会長を退き、店主に就任。
1976年(昭和51年) フランス共和国文化勲章コマンドール受章。
1981年(昭和56年)3月7日 95歳で逝去。

出光佐三 - Wikipedia

機会があれば読んでみたい。

まずは折り返して、上巻を読む。