HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

カラマーゾフとイエスと風邪(ネタバレあり)

どうも大作を読もうとすると、知恵熱が出る。風邪を引いたらしく、喉の痛みがこの数日とれない。薬を飲んでも、からだの倦怠感がとれない。年をとったものだ。長い長い時間をかけて「カラマーゾフの兄弟」をKindleで読み続けて、ようやく最後の裁判のところまで来た。

カラマゾフの兄弟 完全版

カラマゾフの兄弟 完全版

最後まで読了する前に力尽きてしまいそうなので、直感的なことだけ。どこかでid:finalvetさんが「ドミートリイはイエスキリストだ」と書いていた気がする。どこで書いていらしたのか、検索する元気もない。次男のイワンの語る「大審問官」はドストエフスキーの小説全体の最初のプロットであったのではないだろうか。イエスがドストエフスキーの生きた「現代」に産まれたとしたら、民衆は彼を救い主として受けいれただろうかと?あるいは、末法末世の現代の民衆の中でイエスのような人が産まれたら聖人でいられたかと。逆説的に言えば、神はいない、従って道徳や愛に究極のリアリティを与える源泉がないという状況でも人は生きられるのかと。

少し、話をもどす。確かに福音書にならった話がたくさんでてくる。ゾシマ長老がドミートリイを拝礼するのは、「荒野で呼ばわる者」ヨハネを思い起こさせる。ドミートリイのもよおす「宴」は、イエスが最初に示した婚礼の奇跡を想わせる。カーチャとグルーシェンカは、マグダラのマリアと娼婦のマリアを思い出させる。裁判においても、弁護士が論破に論破を重ねたのにもかかわらず、「手紙」の預言が成就する。検察官イッポリートの言葉にも、父殺しの後の宴会を「大聖宴」と読んでいる。「大聖宴」とは「最後の晩餐」のことではないか?最後の晩餐でイエスが裏切り者の告発による捕えられたのにならって、ドミートリイは「大聖宴」において退歩され、裁判により死刑宣告ならぬシベリア行きとなる。銀貨三十枚の代わりの三千ルーブルが随所にでてくる。

符合する点を数え上げたらきりはない。しかし、まだ私の中ではこの物語が腑に落ちていない。ただ、書かれなかった「続編」で「リーザとの愛に疲れたアリョーシャがテロリストとなり、テロ事件の嫌疑をかけられて絞首台へのぼる」ことが成就して、この物語は始めて終わりをむかえられのではないかと。ここまで来て、現代における信仰の可能性が示され得たのではないかと私には思える。この意味において、「カラマーゾフの妹」を再度評価すべきだと。

カラマーゾフの妹

カラマーゾフの妹