「経済学者社会学」という学問分野が必要なのではないだろうか?私のような門外漢には経済学の詳細は理解できない。いや、実は理解できないのは、経済学者たちが語る見解が純粋に自分の学問的な信念ではなく、政治社会学的な力学に基づいているからではないか?そう、最近思えてならない。たとえば、クルーグマンの言説、論理は明快。でも、そのクルーグマンの言説ですらリベラルという彼の政治的立場から出ているのではないか?
- 作者: ポール・クルーグマン,山形浩生,Paul Krugman
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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学問的な言説と流布されている経済学者の意見が違うと初めて感じたのは、ずいぶん前だった。私は、小学生のころからずっとインフレは恐ろしいことだと教えられてきた。教科書にも、乳母車で山のようにお札を積んででミルクを買いに行く写真がでていたし、親たちからも保険の積み立てがインフレで無価値になったと教えられてきた。だから、米国のビジネススクールのコアカリキュラムの単位取得にがんばっていた1994年に、経済学の授業を担当して下さっていたDr.Chinloyが「インフレの害はなにか?メニューを書き換えなければならなくなるメニューコストだけだ」とおっしゃった時にはびっくりした。その意味するところまでは理解できなかったし、経済学はぎりぎりの点で私のGPAが下がってしまう結果となった。
ブログを始めて、経済政策をインフレに向けるべきか、デフレにとどめ置くべきかという議論を散々読んだ。Dr.チンロイのぎりぎりの点以来、経済学には苦手意識があった。経済学が分からないのは、私の頭が悪いからという直接の理由だけでないのだと、クルーグマンのこの著作を読んで思った。よくわかる。本書は、翻訳者の山形浩生さんのこなれた訳文のおかげもあり、大変わかりやすい。
私が経済学を理解できないのは、経済学が理解できないためでなく、経済学界隈に精通していないからなのだと。そう、経済学者にも、それなりの社会があり、評価があるのだ。そして、その評判を気にしながら発言する。。経済学とは、いわば美人コンテストにすぎないわけだが、そのまた審査員のコンテストをやっているようなものだ。みんな美人コンテストという、経済政策決定の場に立ちたいのだ、審査員として。そのためには、審美眼があると審査員同士で認められなければならない。美人コンテストの主催者である中央銀行家や、スポンサーでうる国を代表する政治家たちに認められなければならない。ならば、その経済学界隈の社会学、社会力学に従わなければならない。