HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「防共回廊」 第三章 東トルキスタンを救え

18才の時の防衛大学の面接で、「陸上自衛隊と、海上自衛隊、将来どちらを志望しますか?」と聞かれ、私は躊躇なく「海自です」と答えた。太平洋戦争開戦について、米国などの実態を把握し戦争を回避しようとした海軍と、日中戦争からずるずると日本を泥沼のような世界大戦にひきずりこんだ陸軍という認識を持っていた。戦略的思想が陸軍には感じられなかった。いや、まてよと思ったのが、今年4月以降訪問した中国の大連、旅順、インドネシアシンガポールベトナムのアジア諸国での体験だった。

各国に行って、日本軍を植民地支配からの救世主と認識し、各国の独立を助けてくれたと少なくとも一部のアジアの人々が感謝している事実を実体験した。国として戦争を終結させてからも、戦い続けた人々の存在が記憶に留められていることも知った。これは、戦略思想として日本がいかにあるべきか、いかに闘うべきかを一人一人にたたきこまれていないとできない仕事であったと直感した。城野先生しかり、小野田さんしかり、インドネシアの英雄墓地に眠る日本兵しかりだ。

そして、東南アジアをめぐり、諸書をめぐり、「防共回廊」にたどり着いた。戦前の日本陸軍がいかに中国とソ連を分断させるために、モンゴル、チベット、現在のトルキスタンの国々、人々と手を結ぶ戦略を「防共回廊」と。

帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」

帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」

本書は、陸軍の戦略思想がそのまま現代につながっていることを示してる。第一章ではチベット、第二章では中国国内の回教徒を、戦前、戦中、戦後の日本との関わりと、回廊の片側にある中国の圧政について述べられていた。第三章では、東トルキスタンだ。東トルキスタンに至り、もう戦略以前に救いの手をさしのべなければ人道にもとると状況が描かれている。

東トルキスタンのモフェティ氏の1940年のこの言葉から始めよう。

 我が東トルキスタンは断じて支那の領土にあらず(中略)
 赤化支那と屍山血河の大決戦を敢行せし我等のために、而して祖国独立戦の再挙を計る亡命の身を、貴国(日本)に託せる我等のために満腔の同情を寄せられ、今日以後、国際防共陣営の一翼、亜細亜民族の一員として物、心両面に渉り全幅のご支援を与えられ、我等民族の独立保全をして、東亜新秩序の一礎石たらしめられんことを懇願する。

この1940年の時点でソ連スターリン、長征後の中国共産党蒋介石の国民党が入り乱れて、東トルキスタンの独立をつぶしている。

東トルキスタン - Wikipedia

東トルキスタンは、まさにアジア大陸の十字路に位置している。ここを抑えることがいかに国防に直結しているかは、日本がロシア・ソ連の脅威に満州を独立させた危機感より大なるものがある。しかし、危機感があるからといって、そこに住む人々の国も、宗教も、思想も、文化も、習俗も、言葉も、住居も、家族も、生命も蹂躙していいということにはらならない。

 中華人民共和国の建設を二ヶ月後に控えた1945年8月、北京の毛沢東から親ソ派ウイグル人カスミのもとへ招待状が届いた(招待状に応じたカスミは戻らなかった)(中略)。留守を預かっていたサイフジンのもとに改めて北京から招待状が送られてきた。サイフジンは何事もなく北京に到着し、毛沢東劉少奇周恩来中国共産党の最高指導者たちと引き合わされたあと、カスミらが出席するはずだった会議で「新疆人民は人民解放軍の来臨を切実に希望する」と宣言した。
 二ヶ月後、人民解放軍第一野戦軍の戦車隊が轟音を響かせながらウルムチに入城した。中国共産党史ではこれを「新疆平和解放」と称している。

 こうした人為的な(中国共産党の)大量入植政策の結果、東トルキスタンの人口構成は、1949年時点ではウィグル人の比率が80%近くを占め、漢人比率はわずか7%未満だったのが、2000年の人口調査ではウィグル人比率が約45%にまで低下した反面、漢人比率は40%近くまで跳ね上がっている。

 1962年4月、ソ連との国境地帯のイリ及びタルバガタイ地方で6万人ものウィグル人やカザフ人が家畜30万頭を連れてソ連に集団逃亡するという大事件が起きた。タルバガタイ地方のチョチェク(漢語名「塔城県」)では県の人口の約70%が逃亡したというから尋常ではない。

 1966年に文化大革命が勃発すると、東トルキスタンも大混乱に陥った。中国本土から紅衛兵が乗り込んできて、赤い表紙の「毛主席語録」を手に掲げ、「打倒四旧」(旧思想、旧文化、旧習慣、旧習俗の破壊)などという愚劣なスローガンを叫びながらモスクを破壊したり、コーランを焼却したり、イスラーム聖職者の顔にペンキを塗って市中を引き回したりするなど乱暴狼藉の限りを尽くした。

学生や、民衆のデモの壮烈さと、その押さえ込みの壮絶さは敢えて引用しない。

 ラビアは、中国における最も著名なウイグル人として活躍すると同時に、新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴えた。1996年の政治協商会議では、漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行い、注目を集めた。
 同年には、ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジが行った書籍の翻訳[8]や、政協会議でのラビアの演説が公安当局の間で問題となり、ラビアは1997年に全ての公的役職から解任された(シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命)。1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを逮捕し6年間に渡り政治犯として監獄に拘禁された。また、ラビアの夫は9年間に渡り監獄に拘禁され、ラビアの息子2人は現在にいたるまで監獄に拘禁されている。

ラビア・カーディル - Wikipedia

 (2009年)7月7日午前、当局が海外メディアの一団を引き連れ、漢人が経営する自動車販売店の被害状況を撮影させていたところ、それに気づいたウィグル人住民が路上に集結し数百人規模の自然発生的なデモになった。夫や父親を連行されたウィグル人女性やこどもたちが泣き叫びながら、家族の解放を訴え、銃と混紡で完全武装した数百人の武装警察隊や装甲車に素手で立ち向かう様子が偶発的に撮影され、テレビ朝日の「報道ステーション」などで放映された。(中略)
 この日午後、数千人の漢人が群れをなして白昼公然とウィグル人を襲撃し、報復を加えた。青竜刀のような蛮刀、鉄パイプ、角材、スコップ、ヌンチャクなどの凶器を手に、冒頭が白昼堂々と目抜き通りをのし歩くさまをテレビで見た。なんという野蛮な光景か!

もう言葉もない。少なくとも日本陸軍の中に、自国の国防のためであったとはいえ、このような悲惨な共産主義の圧政からモンゴル、東トルキスタンチベットを守ろうという思想をもった将兵がいたことを私は日本人として誇りに思う。同時に、これは終わった話しではなく、今後のアジアにおける国防を考える上で、大切な過去からのメッセージであると受け止めたい。