HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

市場を無理に理解したり、操作しようとしなくてもいいのかもしれない

昨日は、とても大切な部分を要約しようと広げたのに、不覚にも眠くてできなかった。以下、「繁栄」の該当箇所の要約を試みる。

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(下)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(下)

著者は、市場を無理矢理演繹的に理解する試みは、経済の仕組み自体を悪者にする主張につながるだけだとする。そして、政府などの無用な介入、圧政を産み、停滞を招くだけだと主張している。

この辺から始めよう。

上巻 p.147

世間の会話はゼロサムの発想に支配されている。(中略)マイクル・シャーマーによれば、これは、[市場が未発達だった]石器時代の取引の大半が双方に恩恵をもたらすことは稀だったからだそうだ。「私たちは進化を遂げるあいだゼロサム(勝ち負け)の世界に生きてきた。そこでは一人の利益は別の人の損失を意味した。」

と、ここまで書いて、昨日、自分が探しても見つからなかった部分は下巻にあるのに、必死に該当箇所を上巻で探してたのだと気づいた。そりゃ、見つからない訳だ。

さて、それでも、上巻のこの部分は大切なのでもう少し続ける。

著者は、市場がいかに不道徳な場所と認識されてきたかについて論を続ける。

生物進化と同様、市場は監督者のいないボトムアップの世界だ。オーストラリアの経済学者ピーター・ソーンダーズが言うように、「誰かがグローバルな資本主義システムを計画したわけではないし、それを運営しているわけでももないし、ほんとうに理解しているわけでもない。これは知識人にとってはとりわけ腹立たしいことだ。資本主義のせいで彼らは無用になってしまうからだ。資本主義は彼ら抜きで完璧に機能し続けられる。」

そして、いかに資本主義が悪者扱いされてきたか、商人が軽蔑され続けてきたかを描く。経済学者が市場をデザインしたわけでも、聡明な君主が取引のルールを定めたのでもない。彼らはすべてあとからついてきて自分の思い込みで制御しようとする。そのだ最大のものが共産主義計画経済であったろう。いまの日本もそれに続いていることに危機感を持つのだが。

しかし、歴史をひもとけば実際には市場取引の拡大によって「徳の形成」が促進されてきた。市場経済のネットワークが広がれば、広がるほど、信頼は広がった。

シカゴ大学のジョン・パジェットが十四世紀フィレンツェの商業革命についてのデータを集めると、「互恵的な資金賃借関係」のシステムが出現し、ビジネスパートナーが徐々に多くの信用と援助を差し伸べ合うようになるにつれ、利己主義は拡大するどころか消えて行ったとがわかった。「信用の爆発的増大」が起きたのだ。「人びとの物腰が穏やかな場所ではどこでも商業が見られ、商業がある所ではどこでも人びとの物腰は穏やかだ」とシャルル・モンテスキューは述べた。

確かに歴史を顧みれば、徳を重んじる聡明な専制君主よりも、あくまで自己の利益のためにしか道徳的行動をとらない商品の方が、繁栄と平和をもたらしたのだ。それでも、暴力がまだ支配している中で平和な流通を保証できたのは、政治経済の問題であったようにも思うが、それは古代という中世とはまた別な話し。

赤の他人を名誉友人に変えることによって、交換は卑しい利己主義を一般的な慈悲心に変えうるという点でアダム・スミスは正しいのかもしれない。1800年以降、人びとの暮らしは急速に商業化したが、これはそれまでの何世紀ものあいだと比べて人間の感受性が並外れて進歩した時期と重なる。このプロセスは最も商業的だったオランダとイギリスで始まった。商業以前の世界では、想像を絶する残虐行為が当たり前のように見られた。処刑は見て楽しむスポーツのようなもので、手足などの切断は日常的な懲罰だった。人間の生け贄は取るに足らない悲劇で、動物の拷問は人気の高い娯楽だった。商業資本主義のおかげでじつに多くの人が市場に頼るようになった十九世紀は、奴隷経済や児童労働、縄で狐を放り上げるフォックス・トッシングや闘鶏のような娯楽が容認されなくなった時代でもあった。

実際、現在の市場社会でも超富裕層は非常に福祉に貢献している。道徳的に正しいが人たちが赤貧でなにも福利厚生に貢献できないことよりも、徳が高いと賞賛されないまでも少なくとも法律的には間違っていない商業行為で稼いだお金を慈善行為に使う方が社会的な価値は高い。


さて、ここまで前提を書いてようやくまとめたかった下巻の問題に移れる。長いが引用させていただく。

下巻 p.93

豊かさは豊かさを呼ぶ。発明すればするほど、さらなる発明が可能になる。

(中略)

このようなことを予見した人は誰ひとりいなかった。政治経済学者の先駆者たちはいずれ停滞が起きると考えた。アダム・スミスやデイヴィッド・リカード、トーマス・ロバート・マルサスはいずれも、やがて収穫逓減の時代が訪れ、当時進行中だった生活水準の改善にも終止符が打たれると予想した。(略)すべては彼(リカード)が「定常状態」と呼んだ状態に向かうとされた。

(中略)

これはまったくの虚構だった。最終的な定常状態を意味する概念を経済のごとき動的システムに適応することは、いかなる哲学的な抽象化にも負けず劣らず謝っている。それはパレートのたわごとなのだ。経済学者のイーモン・バトラーが述べているように、「『完全市場』の罪はそれが抽象的だというだけではない。全くのでたらめなのだ・・・・教科書に『均衡』という言葉を見つけても忘れた方がいい。」それが誤っているのは、完全な競争、完全な知識、完全な合理性を前提としているからだ。そのどれも実際には存在しないか、できないかのどちらかだ。完全な知識を必要とするのであれば、それは計画経済であって市場ではない。

そして、著者は市場に対する君主、議会、官僚、学者などの統制を否定する。ここまで来て、かなりブラックスワンのタレブの主張に近くなってくる。この前後の節で著者は現実の産業革命中の発明を実証し、演繹的思考でなく、帰納的実験から発明がなされ科学というものは、その後を追随するのに過ぎないと行っている。この主張もタレブのプラトン主義の否定につながる。実際、この次の節のタイトルは「イノベーションは山火事に似ている」だ。

やはり、本書にはべき乗則思考への道を開けているように思えてならない。ただし、私が経済学者が合理性の名の下に信頼を裏切ると主張したことと著者の主張は適合していない。信頼の拡大について述べていても、道徳的な商行為を経済学者が示すべきだとはマット・リドレーはひと言も書いていないことにようやく気づいた。

圧倒的な「繁栄」の前には悲観主義は陰をひそめる。